市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に三島の私兵集団である「楯の会」のメンバーとともに乱入し、将官を拘束したうえで、三島と一人の若者が割腹自殺を遂げた1970年の事件は、本来、何か得体のしれない思想に取りつかれた狂人の愚行に過ぎず、週刊誌…現在ならばネットの記事で数日ばかり注目されて、それから何事もなかったかのように忘れさられていく類いのものだ。背後に大きな政治勢力もなく、被害も結果的にはさしたるものはなく、首謀者はその場で自殺するという自己完結した事件である。

 この事件が複雑であり、またいまだに語り継がれるのは、彼が当時、当代随一の作家であり、そしてこの凶行に至るまで、壮麗な迷宮のような文学作品をいくつも残し続け、それが結果的に犯行声明となる仕掛けが施されているからだ。

 あの事件からおよそ50年経過した今、私はこの事件を全くのペテンで、ナルシシズムに彩られた「手の込んだ自殺」として受け取るのが、差しあたり正しいと思う。

 戦争中の死が身近に迫った世界の荒廃に、退廃と夭折(ようせつ)の美学を見いだした戦中派の青年は、戦後に絶望し続けてきたという。しかし、その戦中派の青年すらも、その疎外と孤独を逆転させ、虚構を作り出してきたのではないか。そしてそれを楽しんできたのも本人なのではないか。

 三島の生涯は、反動的で人にさげすまれ、軽蔑される存在を一貫して目指していた。三島が作品の中で描き、自らも没入していった被虐趣味と性的倒錯と死。それが忌まわしいものだからこそ崇高な価値を帯びるという逆説を三島は体現し続けてきた。背徳者として後ろ指をさされることを三島は選び、それを演じ続けていた。

 三島の出世作『仮面の告白』の主人公の「私」は、殺される王子を夢見、女流奇術師のいで立ちをマネしてはしゃぎ、矢が突き刺さった青年の半死の裸体を見て自慰を始める。

 そして三島の最後は「おもちゃの兵隊」と揶揄(やゆ)された、西武百貨店でデザイナーに特注した豪華な軍服に身を包み、自らの私兵集団の王子として、自分の体に刃を突きたてた。こうして、三島の生涯は完璧に作品に一致することになる。現実と虚構が重なり、そして一体のものとて錯視できる。三島が目論んだものはこれなのだ。

 だから、天皇論や右翼的な思想なぞはそのために必要とされる舞台回しで、メルヘンにしかすぎない。『太陽と鉄』以上に、虚構が破綻し、支離滅裂とも言える天皇崇拝のステートメントである『文化防衛論』は、現代の右翼勢力でも取り扱いに困惑し、棚上げせざるを得ない状態になっている。石原が嘲笑した、三島の剣道の掛け声のようなものだ。その思想を語れば語るほど現実から三島は乖離していった。

 その三島のふるまいを滑稽だと笑うこともできる。虚構だということもできる。しかし、滑稽や虚構は、それだからこそ崇拝されるということもある。それを三島は正しく計算していた。

 三島事件は、芸術としてつくられた事件で、「文学的な政治」の極地であった。私たちは、ここから政治的な何かを受け取る必要もない。人生そのものを作品としてしまった壮大なトリックにただ圧倒されればよい。三島の芸当を模倣してはいけないし、それに続くものもいないだろう。ただその孤独の異様さに崇高の念を抱くだけでよいのである。
三島由紀夫=1969年4月27日
三島由紀夫=1969年4月27日


 追記:「三島を殺したのはオマエだ」と石原慎太郎が喰ってかかったのは、美輪明宏が肉体的虚弱をからかって、後の異様な肉体ナルシシズムへの道を開いたことと、もう一つある。それは、ある時美輪が三島に霊がついていると脅したことだ。その霊の顔が見えるという美輪に、三島はどんな顔だと尋ねると、軍服を着ているという。それを美輪は、天皇に弓引いた逆賊とされ刑死した2・26事件の首謀者の一人、磯部浅一と告げた。三島事件の前年のことである。(文中敬称略)