渡邊大門(歴史学者)

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、当初の予定から延期され、1月19日が初回放送になった。「ゆかりの地」とされる地域では、一日千秋の思いでお待ちのはずである。自治体関係者の方などは、観光客がどれだけ来るのか心配される向きもあろう。

 とはいえ、前回の連載で、光秀が土岐明智氏の出自であることは、残っている史料では成り立ちがたいと指摘した。質の悪い史料を並べて論じたところで、まったく意味がないのである。実は、ほかにも光秀の出身地とされる場所が各地にある。

 たとえば、『淡海温故秘録(おうみおんこひろく)』という17世紀後半に成立した史料がある。そこには美濃出身の明智氏が土岐氏に逆らって牢人となり、近江の六角氏を頼って佐目(滋賀県多賀町佐目)に逃げてきたと書かれている。それから2、3代後になって、光秀が佐目の地で生まれたというのである。

 事実ならば、光秀の誕生地は滋賀県多賀町佐目ということになる。ちなみに、佐目の地には、「十兵衛屋敷の跡地」などの関連史跡があり、光秀に関する逸話・伝承の類が残っているという。「光秀佐目出身説」は、事実と考えてよいのだろうか。

 結論を言えば、この説もまったく信憑性に欠けるといえよう。光秀の出身地については、この例に限らず、質の劣る後世の編纂物や系図などに書かれている。『淡海温故秘録』は、良質な史料とは言えない。地元に伝わる伝承の類などもあてにならない。

 光秀の出身地であると胸を張って言いたいのであれば、一次史料(古文書や古記録の類)で立証すべきである。質の悪い二次史料を持ち出して言い出し始めると、キリがないのである。以下、似たような説を考えてみよう。

 光秀が滋賀県にゆかりがあったという説は、ほかにもある。永禄9年10月20日の奥書を持つ『針薬方』(医薬書)には、光秀が田中城(滋賀県高島市安曇川町)に籠城していたとの記述がある。この一節を根拠にして、光秀が琵琶湖西岸部を本拠にしていたとの指摘もあるほどだ。はたして、それは本当なのか?

 以下、この件については、土山公仁氏(「光秀を追う7」岐阜新聞2019年7月2日付)や太田浩司氏(『明智光秀ゆかりの地を歩く』サンライズ出版)の諸説をもとにして考えることにしよう。

 『針薬方』とは、光秀が田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉に口伝され、米田貞能が近江坂本(大津市)で写した。室町幕府15代将軍、足利義昭は国人衆に味方になるよう呼び掛けた手紙を書いたが、結局、出すことがなかった。『針薬方』は、その手紙の裏に書かれたものである。つまり、反古紙を利用したものだった。

 沼田勘解由左衛門尉は熊川城(福井県若狭市)に本拠を置き、義昭に仕えていた。米田貞能は医術によって、足利義輝・義昭に仕え、のちに肥後細川氏の家老になった。貞能は永禄9年に義昭が越前に逃避行する際、同行した人物である。つまり、実在の人物が書写したことが明らかなので、良質な史料と言えるのかもしれない。
明智光秀像=京都府亀岡市古世町(同市提供)
昨年5月に建立された明智光秀公像=京都府亀岡市古世町(同市提供)
 しかし、疑問がないわけではない。永禄9年8月29日、逃避行中の義昭は矢島(滋賀県守山市)を出発し、9月7日に敦賀(福井県敦賀市)に移動した。10月になると、義昭は朝倉氏を頼るべく交渉を開始していた。そのような緊迫した情勢の中で、米田貞能がわざわざ敦賀から坂本へ移動し、医薬書を写す必然性があるのかということである。

 加えて、光秀が田中城に籠城していたという史実を裏付ける史料は、ほかには存在しない。ましてや、琵琶湖西部を本拠にしたという指摘があるが、当該地域に光秀が発給した文書は1点も見いだせない。太田氏は、『針薬方』の記述内容が当時の近江の状況とかけ離れていると指摘する。