辺野古移設反対運動の性格は中国の尖閣奪取行動と同じ


 政府は米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に向けた海上作業を粛々と進めているが、現地では反対派が抗議船を仕立て、激しい抗議活動を展開している。

 2月8日付沖縄タイムスでは、抗議活動へカヌーを漕ぎ出す20代女性がアイドルのように微笑む写真を掲載。記事によると、彼女は抗議活動について「すごい人たちがやっているイメージかもしれませんが、見ての通りフツー。自分みたいな人がどんどん来たら、権力はいちばん嫌がると思うんですよね」とコメントしている。

 この記事を読むと、反対派は県民の声を代弁して権力に抗戦するヒーロー、ヒロインという印象を受けてしまう。しかし前述した公安調査庁のレポートでは、辺野古反対派の動きは次のように記されている。

 「革マル派などの過激派は、同調査の『実力阻止』を訴えて、沖縄県内外から辺野古に赴いた反対派と共に、海上保安庁の警告を無視して、小型船艇で移設予定地やその周辺の立ち入り禁止水域内に繰り返し侵入したり、移設予定地につながる米軍キャンプ・シュワブのゲート前で作業車両に立ち塞がるなどの抗議行動を展開した」

 反対派が果たして「見ての通りフツー」の人たちなのか、地元の辺野古区民は冷静な目で見ている。

 八重山日報は区民の約6・7%に当たる75人のアンケート調査を2月10日付の紙面で掲載した。

 キャンプ・シュワブ前の抗議活動に批判的な区民が最多の49・3%で、共感する区民の約4倍に達した。「通行妨害」「路上で用を足す人が散見され不衛生」「法律違反を何とも思っていない」などの批判の声が出た。

 辺野古移設容認は45%、反対は20%、無回答は28%、「どちらでもない」は4%で、容認派が圧倒的に多いことも判明した。

 本土と沖縄の民意がねじれているなどと言われるが、実は沖縄の中でも民意はねじれている。普天間移設先の地元・名護市の中でも「地元の地元」の声は封殺されているのが現状だ。安易に「民意」を連発する県紙や政治家に警鐘を鳴らしたい。

 大型船を使った海上でのボーリングや資材搬入などの作業に、一般人のカヌーが接近するのは相当に危険だ。デモは意思表示の手段として民主主義社会で当然に認められた権利だが、実力行使による工事の妨害まで容認されるのだろうか。

 反対派は「沖縄の選挙で県内移設反対派が勝利して民意が示されたのに、政府は聞く耳を持たない。だから実力行使するほかない」という論理だ。しかし辺野古移設の作業は仲井真弘多前県知事の埋め立て承認が前提になっており、裁判所の違法判決でも出ない限り、現行の法秩序にのっとっている。実力行使の抗議活動は、法治国家では認められない。
石垣海上保安部に配属される巡視船「ざんぱ」
 尖閣周辺海域では中国公船が連日のように航行し、こちらも実力行使で日本の国境線を変更しようと試みている。反対派の抗議活動も、ことの本質は変わらない。本人たちが気づいているかどうかは別にして、両者に通底しているのは「口で分からないならこぶしで分からせる」というテロリストの論理である。

 海上で抗議する反対派自身の安全を確保するためにも、海上保安官が作業への抗議船接近を阻止するのは当然だと思える。しかし1月21日の琉球新報は「保安官が海上でカヌーや抗議船の一斉確保を図った際、カメラを持つ女性に馬乗り」したと写真付きで報じ、県選出の赤嶺政賢衆院議員(共産)が国会で取り上げる騒ぎに発展した。

 同31日付の琉球新報は「海上保安庁は非を認めず『安全確保のため』と繰り返している。新基地建設を強行する安倍政権の下、国民や県民の批判をかわすことだけを考え、苦しい弁明に追われている」と解説した。中国や北朝鮮で横行する人権弾圧と、移設工事の警備を同列にとらえるような論調には呆れてしまう。

 さらに同紙は「本紙が写真を掲載していなかった場合、暴力行為は明るみに出なかった可能性もある。報道陣がいない時の海上保安官の暴力行為を訴える市民も少なくない」と胸を張った。こうした報道ぶりに「マッチポンプ」という言葉を連想する人もいるだろう。

 ただ本土の人たちに留意してほしいのは、辺野古反対派の抗議活動にせよ、独立論にせよ、究極の目標とするのは沖縄の平和であるということだ。県民は、本土から見ると異常なほど平和にこだわる。その背景には、悲惨な沖縄戦の経験がある。

 1944年、沖縄から九州に向かう学童疎開船「対馬丸」が米軍に撃沈され、約1500人の犠牲者が出た。個人的な話になるが、今年83歳になる私の母は、12歳の時、対馬丸とともに出港した別の学童疎開船に乗り込んでいた。

 朝、船の甲板に出た母は、乗客たちが口々に「後ろの船が撃沈された」と話すのを聞いた。母の運命は間一髪だったし、私自身も沖縄戦のせいで、この世に生を受けるチャンスを逸するところだった。

 戦後70年を経たとはいえ、戦争の記憶はいわば140万県民のトラウマとして存在し続けている。「平和のため」という口上さえあれば、独立論であれ違法な抗議活動であれ、好意的に受け止めてしまう県民性がある。それを政治的に悪用しているマスコミがあり、政治家がいるのが沖縄の問題点だろう。

 しかし独立論に限って考えると、沖縄では現在、1972年の復帰後に生まれた世代が社会の中堅を占めるようになった。県民が沖縄差別に苦しんだ戦前や米軍統治時代のように「日本人と沖縄人」にアイデンティティが分断された時代ははるか過去になりつつある。将来的にも独立論が県民に浸透することは有り得ない。

 警戒すべきは、例えば尖閣をめぐって日中の軍事的衝突が勃発し、県内が大混乱に陥ったときに、一部の勢力が「民意」と称して一方的に独立を宣言し、中国につけ込まれるような事態だろう。マスコミや一部の政治家にはびこる現在の独立論は、一歩間違えばそうした事態の素地を作ることになりかねない。

 民主主義社会では暴力を伴わない限り、独立の主張も認められる。マスコミや一部政治家の言論自体を問題視するつもりはないが、サイレントマジョリティ(声なき多数派)である県民は「沖縄は独立を望んでいない」というメッセージをきちんと発信する必要があるだろう。

 これまで、居酒屋で酔っ払いが口角泡を飛ばす「居酒屋独立論」と揶揄されてきた独立論だが、現状は明らかにそのレベルを超えつつある。独立論を批判する側もしっかりした理論武装が求められているのだ。