ただ、一方で、指導プログラムのノウハウが未熟で手探りの状態という印象は否めなかった。新しい道徳教育に対応する教職員の育成もまた急務だろう。

 とにかく、子供たちのメンタルを扱う分野なだけに、風当たりも強いのは当然といえば当然だろうが、残業を重ねて真剣に取り組む現場の教職員の方たちの姿にも目を向けてほしいと思う。

 『クローズアップ現代』で露呈された道徳教育の問題点については、取り扱う教材の質(現実感や妥当性など)と議論のプロセスにおけるモラルが問われるべきで、決して「考え、議論する道徳」を否定するものではないと筆者は考える。

 議論というプロセスにおいては、時に衝突、苦悩、葛藤、誤解などがあって当然だと思うし、そういった過程の中で得られた道徳観や異なる価値観の気づきなどは、むしろ人生の宝物となるべく経験に転化して考えていくべきではないだろうか。

 道徳に限らず教育とは常に手探りであり、楽観的で言い方は悪いかもしれないが、試験的な試みを積み重ねていく必要があるのではないかと思う。

 そして、「考え、議論する道徳」に不可欠な要素となるのは言葉の教育だ。人の心は読めない。言葉で表現しなければ、心の中で考えたり感じたりしたことは人には伝わらないものである。

 小学校学習指導要領では「言語活動の充実」を掲げている。その目的は「話し合いなどによって自分の心の中を言葉で表現し、文章に書き出すなどして、友達の考えを聞き、自分の考えを伝えるというプロセスを通じて、多様な感じ方・考え方に触れ、考えを深める」といった、言葉を活かした学習の充実だ。

 人は自分の知っている言葉でしか表現できない。例えば、何かを手に入れたいときに、幼稚園の頃は「これほしい」とか「これちょうだい」くらいの表現しかできないが、小学生になると「○○ください」とか「○○はありませんか?」と人に尋ねたり、「△△だから○○を買ってほしい」と理由をつけて要求したりすることもできるようになる。

 つまり、伝えたい気持ちがあっても、表現する言葉をたくさん知っている人と、あまり知らない人では、コミュニケーションに大きな差が出てくる。

 また、すでに筆者が学生の頃から嘆かれ続けてきた「日本語の乱れ」の問題がある。当時はもっぱら「若者の言葉遣い」が批判の対象だったが、その若者たちが大人になり、子育てをし、いつしか家族そろって乱れた言葉を日常的に、時・所を選ばず使用している。
声優でミュージシャンの小西寛子氏
声優でミュージシャンの小西寛子氏
 どのような場面でどのような言葉遣いを用いるのが適切か不適切かという判断はおろか、善悪の分別すら未熟な発達途上にある子供たちの耳に入る場所で、そういった粗雑な言葉遣いが交わされていることについて、筆者は「当時の若者」の一人として、保護者に反省と改善を促したい。