なぜ、きれいな言葉を使うべきか、というと、同じ意味の言葉でも、言葉遣いによって受け取る側に温度差が生じるからだ。きれいな言葉、丁寧な言葉というのは、日本人にとっていわば「共通言語」であり、自分の気持ちや考えを伝える上でより正確に、豊かな表現ができる。

 悪態をつきたい、悪ぶってみたいという子供たちの気持ちはよく分かるし、言葉遣いが悪い人でも人情味ある礼儀正しい人だってたくさんいる。

 だから百歩譲って、きれいな言葉遣いではないと理解した上で、「限定した場面で、故意に、あえて選択して使用する悪態」についてはスパイス的な要素として許容し、きれいな言葉を基本とし、乱れた言葉を日常的に使わないなどの緩やかなルールを家庭内で設けて、言葉を使い分けてみてはどうだろうか。言語活動を充実させるには、単純に学習によって語彙を増やすという作業と共に、家庭や地域社会、そしてマスコミの役割も大きい。

 いずれにせよ、道徳教育は一筋縄ではいかない。批判的な立場から見れば危うさばかりが目に付くかもしれない。しかし、人は誰しも失敗の中から学ぶことがたくさんある。そんな簡単に物事は順調に進まないものだ。

 大切なのは、試みの中で生じた齟齬(そご)にいち早く気づき、それに対応すること。特に子供たちの心の動きには細心の注意と配慮、ケアがあってほしいし、いじめにつながるような事態は絶対にあってはならないと切に願う。

 また、保護者らにももっと道徳教育に関心を持ってほしい。今回、筆者がお邪魔した公開講座は、土曜日ということもあり授業を参観する父親の姿や夫婦での来校も多かったが、ワークショップに参加した人の数は全児童数の5%にも満たない。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 新しい道徳がどのような理念と目的で実践され、どういった教育論で行われているのかを把握、理解することで、家庭における親(保護者)としての役割がより具体的に見えてくるのではないだろうか。ぜひとも、この「考え、議論する道徳」を意義あるものにしてほしい。