小泉悠(東京大先端科学技術研究センター特任助教)

 モスクワのヤロスラヴリ駅を出て1時間ほど森の中をエレクトリーチカ(郊外列車)に揺られていくと、モニノという小さな駅に着く。駅前というにはあまりにも寂しい改札口には、食料品や日用品を売る小さな商店が並んでいるだけだ。

 筆者がモニノ駅に降り立ったのは2016年のことだ。この街にある空軍博物館を訪れようとしたのだが、駅を出るとすぐに道に迷ってしまった。

 博物館といっても、元々はソ連空軍の教育施設であったから、そうわかりやすい場所にあるわけではない。博物館へ通じる道を探して古い団地の中を彷徨(さまよ)っていると、タイムスリップしたような気分に陥った。

 この団地は、かつて存在した空軍の操縦士訓練学校のために建てられたものの、老朽化するに任されており、その所々でソ連空軍の栄光を称(たた)える銅像が雑草に埋もれている。超大国ソ連の「夢の跡」だ。

 軍の建て直しが進み、軍人たちの生活環境も改善されたプーチン政権下でもこうなのだから、1990年代にロシア軍がなめた辛酸は想像に余りある。給料は大幅に遅配されるか、期日通り支払われてもハイパーインフレで紙くず同然になった。

 手厚い社会保障も滞り、アルコール、ドラッグ、新兵いじめが蔓延(まんえん)する。暮らしていくために兵器や燃料の横流しに手を染める軍人も後を絶たず、国民の軍に対する信頼も地に落ちた。

 こうした状況でロシア軍が頼ったのは、かつてナチス・ドイツという「人類悪」を打倒した偉大な軍隊の「後継者」というアイデンティティーである。その一例は、ソ連時代に用いられていた名誉称号をロシア軍が引き続き保持したことであろう。
ロシア・モスクワ近郊のモルニ空軍記念館に展示されているスホーイ25攻撃機(手前)とツポレフ144超音速旅客機(ゲッティイメージズ)
ロシア・モスクワ近郊のモルニ空軍記念館に展示されているスホーイ25攻撃機(手前)とツポレフ144超音速旅客機(ゲッティイメージズ)
 93年に成立したロシア連邦憲法第13条は「ロシア連邦はイデオロギー的に多様な国家である」「いかなるイデオロギーも国家的なものではなく、義務ともされない」と謳(うた)っている。それでもなお、ロシア軍はこうした称号を捨てず、「赤旗勲章」、「レーニン記念」、「スターリングラード解放」などの称号が相変わらず冠され続けたのである。