手段に熱中して目標を脇に置いてしまっては、生産手段が社会化されても国民の権利は保障されなかった共産主義体制の誤りを繰り返すことになる。中国企業で世界に最も影響力のある華為技術(ファーウェイ)が形式的には民間企業であることを見ても、「社会的所有」か「私的所有」かによって、社会への影響が違うとする議論の虚しさを感じる。

 もう一つは、その新しい体制を表す言葉だ。私はそれを、「共産主義体制」ではなく、「コミューン」と呼びたい。

 共産主義(コミュニズム)の語源はコミューンである。英語のコモン(common)にあたるが、もともとはフランス語で、「共通」「共同」「共有」などを意味する。そこから転じて、中世の欧州では、領主から住民による自治を許された都市を指していた。

 つまり、共産主義を生み出した欧州の人々が、共産主義という言葉からイメージするものは、日本人がイメージするものとは根本的に異なっているのだ。現在の世界でコミュニズムという言葉を聞く欧米の人々は、資本の横暴に対して自治を許された住民が共同して立ち向かい、社会を支え合うことをイメージするのではないか。

 そうでなければ、あの米国における若者を対象にした世論調査で、「社会主義に好意的」と答えた人が51%にのぼり、「資本主義に好意的」の45%を上回った事実を説明できない。米コロンビア大が、米国やカナダ、英国などの大学の講義要目(シラバス)をチェックし、使われているテキストを自然科学も人文科学も社会科学も併せて調べたことがある。93万件のシラバスの中で、3番目に多かったのがマルクスの『共産党宣言』で、『資本論』も44位に入ったそうである。

 日本人の多くは、共産主義と聞いて、「財産の共有」を思い浮かべる。日本のコミュニストにしても、多くも「生産手段の共有」を表す言葉だと信じている。そして、生産手段の社会化の形態や度合いの議論に集中してしまう。しかし、この言葉を生み出した欧米の人々は、今の資本主義では解決できない自治や共同、共存などが実現する社会を思い浮かべる。

 これはもう、言葉の問題ではない。求められる体制をどういうものとして構想するのかという問題だ。

 だから、新しい社会はコミューンであり、それを実現する革命はコミューン革命である。外来語を使わないで中身を表現するとすれば、新しい社会は「共同社会」とも呼べる。ただ、コミューンの経験のない日本人には「共同社会」と言ってもイメージできないだろうから、それを「支え合う社会」と呼んでもいい。まさに、人が支え合うコミューン=共同体を実現することだ。

 この社会にどんなに貧困と格差が広がっても「われ関せず」という富裕層や大資本に対しては、「社会を支える側に立て」と迫っていく国家権力が不可欠だ。どんなに温暖化が進んでも「石炭火力は必要です」という企業に対しては、「目先の利益だけでなく、人類の未来のことも考えよ。地球を支え合う思想を持て」と強制する権力が必要なのだ。

 それが「支え合う社会」である。ノスタルジーとしてではなく、現実に不可欠なものなのである。
東京都渋谷区の日本共産党本部(桐山弘太撮影)
東京都渋谷区の日本共産党本部(桐山弘太撮影)
 私が共産党の政策委員会に在籍していたころ、選挙などで問い合わせしてくる共産党の支部長なども、「共産主義は怖い体制だ」と述べるほどであり、「共産主義体制」なるものは、いまや日本のコミュニストでも実現を希望していない。しかし、目指すのが「支え合う社会」なら、米国で社会主義を望む人ほどは日本にも支持者が出てくるのではないだろうか。