いずれにせよ、オウムのこのサリンの散布要領、すなわち「ポリ袋に入れてとがらせた傘の先で突く」というやり方は、稚拙で効果的ではなかったという見方が強い。

 ちなみに、松本サリン事件では、サリン噴霧車(改造された2トントラック)を使い、ガスバーナーで加熱した鉄板にほぼ100%のサリンを滴下して気化させ、ファンで噴霧するやり方であった。夜間だが、加熱された蒸気は上昇し、症状が出た者は500メートル四方に及んでいる。

 次に、化学テロ対応において、主要な機能である検知、防護、除染、救護という4つの分野において、当時と今で何が変わったかについて概観してみたいと思う。

 まず、検知である。25年前には、まだ消防にも警察にも、化学物質に対する携行型の検知器はなかった。可搬型のものさえなかった。そもそもサリンなどの神経剤や化学兵器に関しては、陸上自衛隊にしかその知見はなかった時代である。その陸上自衛隊化学科にさえ、信頼性のある検知器はなかったのである。

 一部にIMS(混合物中の化合物を、その衝突断面積によって分離する手法)原理の国産検知器が装備品としてあったが、現場では使われなかった。信頼性が低く、使い物にならなかったためだ。

 現場では検知能力はほぼなかったといっても過言ではない。従って検知識別から判定まで3時間かかったというのも、当然といえば当然かもしれない。当時の映像を見ると、警察関係者が、デシケーター(保管用容器)の中に新聞紙(に包まれたサリン入りポリ袋)を入れて持ち帰る場面が出てくる。

 デシケーターのふたは逆向きで、しかも素手で運んでいる。そもそもデシケーターの用途とは、容器を密閉し、シリカゲル(乾燥剤)によって内部の湿気を一定にすることで検体の成分を保全し漏れないようにするためだ。検知能力が十分あるなら、事件の証拠品を保全せず、毒物を素手で触るようなマネはしないだろう。当時は有効なサンプリングキットさえなかったことが推察できる。
地下鉄サリン事件発生当日、八丁堀構内から続々と運び出され、救急隊員から手当てを受ける乗客ら=1995年3月20日、東京都中央区
地下鉄サリン事件発生当日、八丁堀構内から続々と運び出され、救急隊員から手当てを受ける乗客ら=1995年3月20日、東京都中央区
 当時のある消防士長は、化学機動中隊の小隊長として新宿消防署に勤めていた。あの日、勤務に就いた直後の午前8時33分、危険排除の要請を受け、地下鉄中野坂上駅に出場、駅構内に入った。そこには事務室の長椅子などで横たわる多くの乗客たち、そして彼らを救護する救急隊員の姿があった。

 この小隊は、可燃性ガス測定器などで駅構内の大気を測定しながら進入した。その後、事務室の横に置かれていたビニール袋が危険物質である可能性が高いとの情報を受けて、地上に持ち出したという。