それを車両に積載していた赤外線ガス分析装置などで測定したところ、アセトニトリル(農薬の原料にも用いられる)という有毒物質であることが判明した。当時は可搬型の小型FT-IR(化学剤や麻薬、爆薬などの物質を分析する装置)などなかったため、わざわざ分析装置を積載した車両まで危険物を持ち出す必要があった。

 だが、そもそもサリンは当時の赤外線分析装置のライブラリーにないので検知ができるわけがなかった。誰もサリンなど想像できなかっただろう。その後、この消防士長は地上で救助活動を手伝っていたのだが、周囲の消防隊員やその他の関係者が続々と倒れ始めた。自分も同じようになるのではと、命の危険を感じたという。

 現在では地下鉄サリン事件の教訓も踏まえて、多種多様な携行型、可搬型の検知器材がある。東京消防庁だけでなく、政令指定都市や大規模な広域消防本部ならば、現場到着から5~10分で原因物質の概定に至るのではないかと思われる。

 さらに、東京五輪・パラリンピックを前にして、会場のスタジアム近傍の消防には、スタンドオフセンサーを配置する動きもある。実際に、先般のラグビーW杯では横浜スタジアムなどで準備されたという。

 この装備は数キロ先のサリンの化学剤雲も検知でき、テレビカメラの横などに配置しておけば、観客席で不審なガスが発生した際にもほぼリアルタイムで検知可能である。その他に、ラマン分析(分子レベルの構造を解析する手法)による検知器を装備する消防、警察もある。これはペットボトルや封筒の中の物質を開封することなく検知識別できる優れものである。

 最近の傾向として、検知器をネットワーク化して化学剤雲の動きをリアルタイムで表示できるソフトやアプリが出てきている。これにより、地下鉄サリン事件のような「今、どこで、何が起こっているのかが分からない」という状況不明な事態を少しでも改善することが期待される。

 そもそも地下鉄サリン事件の初動においては、サリンが使われたという認識はなかった。従って、駅員だけでなく、消防や警察においても素面で行動している関係者が多く見られた。東京消防庁の隊員も、多くが空気呼吸器の面体を首から提げた状態で動いている。これが、二次被害を大きくした要因であろう。
地下鉄サリン事件で防毒マスクなどで完全武装し駅構内に向かう警視庁の捜査員ら =1995年3月20日、霞ケ関駅周辺
地下鉄サリン事件で防毒マスクなどで完全武装し駅構内に向かう警視庁の捜査員ら =1995年3月20日、霞ケ関駅周辺
 PPE(個人防護具)の数量、その質も限定的であった。HAZMAT(Hazardous material、危険物のこと)への防護レベル対応意識も低かった。HAZMATは4つの防護措置レベル(A、B、C、D)に分けられている。

 レベルAは危険物が特定されていない状況かつ酸素ボンベと重厚なマスクをフル装備した防護措置、レベルBは危険物が特定されている状況でAの装備より若干装備が少なく、レベルCは防護マスクと全身防護服、レベルDは作業服にマスクという軽装備だ。