杉江義浩(ジャーナリスト、放送プロデューサー)

 それは昭和の光と、令和の闇が交差した瞬間でした。笑いの神様のような志村けんさんが、よりにもよって新型コロナウイルスで亡くなるなんて、ふざけた作り話ではないか、というのが訃報を知らされたときの私の第一印象でした。

 それが信頼できるソースを元にしたニュースであることを確認すると、私は新型コロナウイルスが、急に身近なものとしてヒタヒタと忍び寄るのを感じました。名も知らぬ誰かがコロナで亡くなっても、そのニュースは客観的に捉えられますが、自分の家族や友人に犠牲者が出ると、もはや傍観者ではいられません。

 志村さんの訃報を聞いて、身内のことのように感じたのは私だけでしょうか。還暦を迎えた私たちの世代にとって、志村さんはコメディアンというよりも、ブラウン管の中の愉快な友達でした。小学生のとき、お茶の間で志村さんの出演するテレビを見て、ゲラゲラと腹を抱えて笑った記憶は、大人になった今も強烈な原体験として残っています。

 仕事でバラエティー番組を担当するようになって、さまざまなお笑い芸人さんとご一緒させていただきましたが、私は志村さんに出演交渉するなどというアイデアは一度たりとも思いつきませんでした。

 私なんぞが近づいてはいけない別世界にいると感じていたからです。私にとって志村さんは遠くから憧れて眺める対象であり、自分が小学生時代に戻ってバカ笑いできる数少ない存在だったのです。

 小学生の頃の私は、無邪気に『8時だヨ!全員集合』を見て、ドリフターズというのはなんて面白いのだろうと深くのめり込んでいました。大人がバカバカしいことをやっている。それがコントという芸であるとも知らず、本当に面白いお兄ちゃんがいるものだと、信じ切っていました。当時の小学生にとって、志村さんが面白いのは、仮面ライダーが強いのと同じく、当たり前のことでした。

 成長して自分がテレビ番組を作る裏方となり、志村さんの生み出す笑いが、コメディアンというプロフェッショナルの、努力と類い稀(まれ)なる才能の産物だと知ったとき、私は畏敬の念を禁じ得ませんでした。そのときすでに志村さんは私の手の届かない高みにいて、相変わらず子供たちを笑わせ、若者から高齢者まで日本中に愛されていました。

 私が最近になって最も驚いたことは、ドリフターズの番組を見たことがあるはずのない今の世代の子供たちも、「バカ殿」や「アイーン」といった志村さんのギャグを知っていたことです。令和の小中学生を相手に、私が「バカ殿」を人形劇でやらないか、と提案したところ、「やろうやろう、それ知ってます!」という返事だったのです。
「アイーン」のポーズでおどける志村けんさん=2014年12月(矢島康弘撮影)
「アイーン」のポーズでおどける志村けんさん=2014年12月(矢島康弘撮影)
 「君たちドリフのコント見たことあるの?」と聞いたら、「バカ殿は知ってます。アイーンの人だよね」とひじを曲げて首に手をやりました。まぎれもなく「アイーン」のポーズでした。「ひげダンスの人だよね」と言う子供もいました。志村さんのギャグは、志村さんの手を離れてそれぞれ一人歩きし、世代を超えて愛される存在になっていたのです。