青山佾(明治大名誉教授、元東京都副知事)

 関東大震災後の東京復興に全精力を傾けたことで知られる後藤新平は、明治維新後、測量学校の学生から医学校に転身、医師となって病院長を務めた後は、内務省に入省してドイツに留学した。ところが、内務省衛生局長となったとき、子爵家のお家騒動「相馬事件」に巻き込まれ失職することになる。

 だが、浪人中に日清戦争が終わると、後藤は、陸軍の責任者として同次官の職にあった児玉源太郎から大陸からの帰還兵の検疫を一任される。しかも、勝ち戦から凱旋して、一刻も早く故郷に錦を飾り家族と再会したい数十万という途方もない数だ。それでも、後藤は見事に検疫をやってのけたのだが、果たしてどのように実現させたのか。

 臨時陸軍検疫部事務官長に就いた後藤は、最初に広島の似島(にのしま)、下関の彦島、大阪の桜島などに宿舎を突貫工事で建てた。そうした上で、征清大総督の小松宮彰仁親王を乗せた船が清から下関に凱旋してくると、児玉は真っ先に船に乗り込み、拝謁を求めた。

 小松宮に「陛下に報告のため拝謁なさる前に、殿下が検疫をお受け頂く準備はできております。いかが致しましょうか」と尋ねると、「もちろん、まずは自分を消毒してほしい」と承知した。児玉は二人が問答することで、他の将兵も検疫を受けざるを得ない状況をつくったわけである。

 その結果、7月からの2カ月だけでも687隻、23万余りの兵を検疫した。このあと作成された「臨時陸軍検疫部報告摘要」は独文版も作成され、世界各国に寄贈された。

外相、内相、帝都復興院総裁、東京市長などを歴任した後藤新平
外相、内相、帝都復興院総裁、
東京市長などを歴任した後藤新平
 報告書を読んだドイツ皇帝が、「世界に戦勝国はたくさんあるが、検疫をきちんとやった国は他にない」と日本を激賞したという話が残っている。後藤の時代、日本は防疫の先進国とされたのである。

 日本は日清戦争に勝利し、台湾の領有権を得た。しかし当初、台湾統治は上手くいかず、欧米からは「やはり日本に植民地経営は無理だ」と言われた。政府は切り札として、児玉を台湾総督に任命し、児玉は後藤を民政局長(のち民政長官)に起用した。