渡邊大門(歴史学者)

 新型コロナウイルス禍が止まらない。当方も講演会が消滅し、窮地に立たされている。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の方も撮影が延期になり、せっかくの盛り上がりに水を差すような状況だ。一刻も早く終息し、通常の生活に戻ってほしい。私も講演が再開されたら、光秀にまつわるトンデモ学説を打倒したいと思う。

 光秀のトンデモ説の一つには、『愛宕百韻』(あたごひゃくいん)の発句「ときは今 あめが下知る 五月哉」がある。抽象的な内容だけに、後世になって都合のよいように解釈がねじ曲げられた。中には、常識的に考えても首を傾げざるを得ない解釈すらある。光秀の発句は、いったいどのように解釈したらよいのだろうか。

 『愛宕百韻』は、天正10(1582)年5月28日(諸説あり)に愛宕山威徳院(京都市右京区)で興行された。

 このとき、光秀は連歌で名高い里村紹巴(じょうは)、里村昌叱(しょうしつ)、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐らに交じって、先に記した「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を詠んだ。

 この発句は「とき=土岐」と解釈され、土岐氏の支族である明智氏が「あめが下」つまり天下を獲ることを織り込んでいると解釈されてきた。本能寺の変が勃発したのは、同年6月2日のことなので、数日前に意思表示をしていたとされた。

 この解釈は、当時の人々も受け入れていたようだ。豊臣秀吉の御伽衆・大村由己(ゆうこ)の『惟任謀叛記』には、光秀が5月28日に「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を詠んだことを記し、「今になって考えてみると、これ(光秀の発句)は誠に謀反の前触れであった。いったいどれだけの人が、このことを理解していたのだろうか」と感想を漏らしている。おそらく「あめが知る」を普通に「天下を獲る=信長への謀反」と捉えたのだろう。

 『愛宕百韻』は原本が残っておらず、写本しか伝わっていない。開催された日はもちろんのこと、光秀の発句の文言にも異同があり、「時は今 天下(あめがした)なる 五月かな」となっている。「天下なる」では、光秀が天下獲りを目論んだことを証明したことにはならないだろう。

 しかし、仮に「ときは今 天が下しる 五月哉」であったとしても、それは光秀による天下獲りの意思表明ではなく、毛利氏を征伐して天下を治めるという連歌研究者の考え方がある。また、連歌師と武将の関係はあくまで文芸の枠組みだけであり、公私にわたる濃密な関係ではないという指摘もある。

 そのうえで、紹巴が天正6年に羽柴(豊臣)秀吉の西国出陣の戦勝を祈願し、「羽柴千句」を張行したことを挙げ、あえて光秀が紹巴の前で謀反を吐露しないと考えるのが常識という。つまり、謀反の情報が秀吉に流れることを危惧していたのだ。
豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵)
豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵)
 光秀の発句については、湯浅常山の『常山紀談』(明和7〈1770〉年頃成立)に有名な逸話が残っている。

 本能寺の変後、秀吉は『愛宕百韻』に参加した紹巴を呼び出し、光秀の発句の意図について知っていたのではないかと詰問した。紹巴は慌てて、「光秀の発句は「天が下知る」ではなく、「天が下なる」だったはず」と弁解した。「天が下なる」ならば、単に五月雨が空の下に降っているだけの意味なので、光秀の天下獲りの意思には解せない。