ところが、秀吉は紹巴の説明に納得せず、『愛宕百韻』の懐紙を取り寄せて確認した。すると、懐紙には「天が下なる」でなく、「天が下知る」と書いてあった。驚いた紹巴は秀吉によく見てほしいと懇願し、自分が知らないところで、「天が下なる」の部分が「天が下知る」に訂正されたと主張した。秀吉は紹巴の説明に納得し、紹巴を許したという。

 この話には、続きがある。実は、もともと「天が下知る」と書いていたのだが、光秀が討たれたのち、紹巴が西坊と秘かに結託して「天が下知る」の部分を削り、また同じ「天が下知る」と書いた。つまり、最初から「天が下知る」と書いていたが、わざわざその部分を削ることによって、あたかも訂正したかのように見せかけたというのだ。

 『常山紀談』は、戦国の世を生きた武将の逸話集に過ぎず、明確な根拠に基づいて書いたものではない。この逸話に関しても裏付け史料があるわけではなく、史実か否かは不明である。ただ、「天が下なる」であれ、「天が下知る」であれ、連歌研究者は光秀の天下獲りの意思表明と考えていないのは、先述の通りである。

 光秀の発句に独自の解釈を施した作家、津田三郎氏は、この発句に中国や日本の古典の知識がいかんなく発揮されているとし、光秀が朝廷の意向を受けた源氏(=光秀。土岐氏は清和源氏)が平氏(=信長)を討つことを表明したと指摘する。

 たとえば、「ときは今…」の箇所は、諸葛亮(孔明)の『出師表』(出陣に際して将軍が志を上表する文)の「今は…危急存亡の秋(とき)なり」を踏まえており、『太平記』の土岐頼貞の挙兵した記事を挙げ、「とき(時)」に「土岐」が掛詞として重ねられていることは首肯できるとする。ただし、この連載でも以前触れた通り、光秀が土岐氏の流れを汲むという説には、明確な根拠がなく疑問が残る。

 さらに「天が下しる(知る、治る)」に「天下を治める」という語義を認めながらも、主語は「土岐」でなく「天皇」と主張する。理由は、「中世には天皇を指して、『治天の君』といった」からであるという。津田氏は天皇を「天が下しる(知る、治る)」の主語とする理由について、下句の「五月哉」を踏まえて、次の通り主張する。

①源頼政が以仁(もちひと)王を奉じて挙兵したのは、5月である(『平家物語』)

②足利高氏(尊氏)、新田義貞が挙兵して北条氏を滅ぼしたのは、5月である(『太平記』)

 古典に通じた光秀は、それらの流れを想起し、自身も源氏の末裔(まつえい)として「横暴」な平氏(織田信長)を討とうとした。それは、幕末に討幕を掲げた長州藩の人々が、楠木正成の討幕活動になぞらえて「正成をする」と称したように、さしづめ光秀は「高氏をした」ことになると解釈する。つまり、「五月」というタイミングは、先人に倣(なら)ったということになろう。こうして津田氏は、「五月哉」に重い意味があると考える。

 一見すると説得力があるが、こじつけと考えざるを得ない。光秀には連歌の素養があったし、『源氏物語』に親しんでいたことは明らかである。しかし、中国の古典はもとより、『平家物語』や『太平記』を細部にわたって覚えていたのかは、別途証明が必要であろう。ましてや、信長を討つという難題について、古典になぞらえて決意をしたというのも不可解な解釈である。タイミングは、政治情勢を見極めたうえでのことだろう。
清洲公園にある信長像=愛知県清須市
清洲公園にある信長像=愛知県清須市
 津田氏の解釈は、付句の「水上まさる 庭の夏山」にも及ぶ。付句の解釈は、『平家物語』の「橋合戦」を踏まえた句であるという。先述した頼政は、平家方の上総介忠清と宇治川を挟んで戦いに及んだ。忠清は頼政の善戦に焦りつつも川を渡る際に、「いまは河をわたすべく候が、おりふし五月雨のころで、水まさッて候」と述べた。