光秀の出自が土岐明智氏でないとするならば、明智氏が提示した『愛宕百韻』の解釈にも疑問が生じよう。改めて『愛宕百韻』の冒頭の三句は、以下の通りである。

 発句 ときは今 あめが下なる 五月かな(光秀)

 脇句 水上まさる 庭の夏山(行祐)

 第三 花落つる 池の流を せきとめて(紹巴)

 上の3句は、一般的に次のように解されている。

発句 時は今、雨の下にいる五月だ

脇句 折しも五月雨が降りしきり、川上から流れてくる水音が高く聞こえる夏の築山

第三 花が散っている池の流れを堰き止めて

 しかし、明智氏は土岐氏の歴史の理解を前提として、次のように読めるという。

発句 時は今、五月雨にたたかれているような苦境にある五月である(6月になれば、この苦境から脱したいという祈願)

脇句 土岐氏の先祖(水上)よりも勢いの盛んな(夏山のような)光秀様(そうであるから祈願は叶うという激励)

第三 美濃守護職を失った(花落つる)池田氏の系統(池の流れ)をせきとめて(明智氏が代わって土岐氏棟梁を引き継げばよいという激励)

 こう解釈したうえで、『愛宕百韻』が毛利氏討伐の出陣連歌であると同時に、土岐氏の栄枯盛衰を重ねたもので、土岐氏再興への激励でもあったという。本能寺の変における光秀の動機の一つとして、明智氏は土岐氏の再興を挙げている。つまり、『愛宕百韻』とは、光秀による信長討伐の意思表明であり、紹巴らはそれを激励したということになろう。

 光秀の出自が土岐明智氏であるか否かを差し置いたとしても、この解釈には疑問が残る。そもそも連歌の読み方で、それぞれの句に暗号のようなメッセージを託すようなことがあったのだろうか。いずれの解釈とも、それぞれの語句に強引に自説の解釈を当てはめただけで、とても納得できるようなものではない。

 加えて言うならば、紹巴らが光秀を激励することについて、何かメリットがあったのかという疑問だ。紹巴は光秀と昵懇(じっこん)であったに違いないが、秀吉らほかの武将とも連歌を通じて、親しく交流していた。

 連歌師は生活を支えるため、多くの武将と交わったが、それはあくまで連歌という文芸の場に限られた。ましてや、紹巴が秀吉らほかの武将に通報する可能性もあるのだから、光秀が不注意にも自らの謀反を予告することはないだろう。

 先述の通り、連歌とは一座した作者たちが共同で制作する座の文芸である。それは、句と句の付け方や場面の展開のおもしろさ(付合)を味わうことにあり、暗号のようなものを託して詠むものではないだろう。そうなると、平凡ではあるかもしれないが、連歌研究者による通説の解釈に従うべきだろう。

 結論を言えば、『愛宕百韻』の光秀の発句については、次のように考えるべきだ。

 ①光秀が愛宕山に参詣した理由は、愛宕山にまつられている勝軍地蔵菩薩に毛利征伐の無事遂行を祈願するためである。
 ②その翌日に行われたのが、戦勝祈願の一環の『愛宕百韻』である。
 ③当然、発句を詠むのは総大将の光秀であり、毛利を征伐すれば、天下が治まるという趣旨を詠まなくてはならない。
 ④「天が下知る」とは毛利征伐で天下を治める意であり、「ときは今」はこの一戦に賭けるという光秀の祈願成就の意気込みである。
坂本城跡に建つ明智光秀像=大津市
坂本城跡に建つ明智光秀像=大津市
 史料の裏の裏を読み、新たな解釈を示した例は、『愛宕百韻』にもたくさんある。史料の読み方を追究することは大切だが、無理をして読んでも仕方ない。そこから導き出された読みが平凡であっても、それが正しいのならば、よしとしなくてはならないと考える。

 結局、『愛宕百韻』の解釈をめぐっては、まず自説ありきで話が進められ、そこに向かって発句などが解釈される。歴史研究では、最もまずいパターンである。いずれにしても『愛宕百韻』の解釈は、まず自説から切り離し、改めて虚心坦懐に読解を進める必要がある。

※主要参考文献
明智憲三郎『本能寺の変 四三一年目の真実』(文芸社文庫)
島津忠夫校注『新潮日本古典集成 連歌集(第三三回)』(新潮社)
田中隆裕「愛宕百韻は本当に「光秀の暗号」か? ―連歌に透ける光秀の腹のうち―」(『歴史読本』45-12)
津田勇「〔コラム〕『愛宕百韻』を読む ―本能寺の変をめぐって―」(安部龍太郎ほか編『真説 本能寺の変』集英社。
廣木一人「連歌の方法 ―「愛宕百韻」を手がかりに―」(同『連歌の心と会席』風間書房)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)
渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)
渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)