知られざる韓国軍の虐殺の数々

       
 64年9月の先遣隊に続き、翌年10月には韓国軍戦闘部隊の青龍部隊(海兵第二旅団)と猛虎部隊(首都師団)が、同12月には青龍部隊と白馬部隊が、さらに66年4月と9月には猛虎第二六連隊と白馬部隊(第九師団)が次々とベトナムに上陸。韓国軍戦闘部隊の多くは、ベトナム中部のニントゥアン省からダナン市にかけて、海岸沿いを走る国道1号の主要都市に駐屯した。

 韓国軍は「共産主義と戦うため」「朝鮮戦争の際に『自由諸国』が韓国に援助してくれた『恩返し』のため」という公式的な名目を掲げ、米国の「傭兵」としてベトナムで「まじめに」働いた。この結果、多くの罪もないベトナムの民間人の命を奪うこととなった。

 ベトナム戦争中に共同通信のサイゴン特派員をしていた亀山旭氏。あるとき、韓国軍を視察した韓国の著名な言論人が「韓国軍がまじめに戦っていることが唯一の救いだ」と亀山氏に話す。それを受けて「韓国軍が反共の意気に燃えて解放戦線の兵士やその住民たちと〝まじめ〟に戦い、〝まじめ〟に殺したことが救いようのない悲劇だったのではないか」と、亀山氏は「ベトナム戦争―サイゴン・ソウル・東京―」(昭和47年)で表現している。

 「まじめ」に戦い、「まじめ」に殺した韓国軍戦闘部隊は、ベトナムに上陸後、数々の過ちを生んだ。

 その一つに、ベトナム中部のいたるところで繰り広げられた韓国軍による民間人虐殺事件が挙げられる。韓国軍による虐殺地は百カ所近くにのぼり、犠牲者の数は1万~3万人とされる(北岡俊明、北岡正敏「韓国の大量虐殺事件を告発する」平成26年)。

 ベトナム戦争時、駐越韓国軍野戦司令部が置かれていたカインホア省ニャチャン市から、北へおよそ90㌔の省境にあるカー峠を越えるとフーイエン省に入る。農業、漁業、林業などの第一次産業が六割を占めるフーイエン省は、省都のトゥイホア市を離れるとすぐにのどかな田園風景が広がる。刈り入れた稲を山積みにしたリアカーが、水牛にのっそりと引かれているさまを見ることができる田舎町だ。

 1966年1月2日(旧暦65年12月11日)、この田舎町の小さな村で悲劇は起きた。韓国軍は朝7時頃、フーイエン省ドンホア県ホアヒエップナム社ブンタウ村に奇襲攻撃を仕掛けた=地図。

 近くにいたおじに手を引かれ、その場から逃げきったグエン・ティ・マンさん(68)=取材した2014年6月時点=は当時を振り返る。
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ブンタウ村虐殺を最近のことのように振り返るグエン・ティ・マンさん (C)村山康文
 「あのころ、ブンタウ村の住民は50人余でした。そのうち37人が、あっという間に殺されたのです。男たちは捕まれば殺されると思い、真っ先に村から逃げました。まさか婦女や子供には手を出さないと思っていたら、韓国兵は残っている村人を一カ所に集めて、ひとりずつ撃ち殺していったのです」

乳房を削ぎ性器を銃剣でかき回し、子供を股裂き、串刺し


 韓国軍がフーイエン省に駐留を始めたのが65年12月26日(旧暦12月4日)。ブンタウ村で起きた虐殺は韓国軍が駐留を始めて十日も経っていなかった。

 さらに4カ月と経たない66年5月14日(同3月24日)、ブンタウ村から3㌔ほど西にあるドンホア県ホアヒエップナム社ソムソイ村でも韓国軍による虐殺事件が起きた。当時9歳だったファム・ディン・タオさん(57)=同=は集落から百㍍ほど離れた場所で牛の放牧をしていたときに、虐殺の様子を目の当たりにする。
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ブンタウ村の「憎悪碑」は1975年建立。韓国軍による虐殺があった村の多くに「憎悪碑」「慰霊碑」が建てられている (C)村山康文
 「午前10時頃のことでした。韓国兵は不意を突いたかのように、あらゆる場所から村に突入しました。陸からはもちろん、ヘリからも。おそらく兵隊は300人以上いたと思います。そのとき、私と父以外のすべての村民42人が殺されました。私の家族や親戚17人も含まれています」

 目に大粒の涙を浮かべたタオさん。

 「私は突然の出来事に驚いて、畦道を走って逃げました。逃げている時に、畦道で破裂した擲弾銃(てきだんじゅう)の破片を顔や足に被弾しました。そのショックで意識を失ったのです。気が付くと、村の近くの病院で韓国軍に拘束されていました」

 意識が戻ったタオさんに対して韓国軍の通訳が「共産党の基地を教えろ」と何度も尋問する。しかし、タオさんは「子供だから知らない」と言い張ったという。

 「当時、子供ながらに韓国軍がソムソイ村でしたことを許せませんでした。釈放された数年後、私は韓国兵を皆殺しにしてやろうと思い、南ベトナム解放民族戦線の少年遊撃兵になりました。でも、その後しばらくして米軍に捕まりました。この顔の傷は韓国兵が発射した擲弾銃の破片の傷と、米軍に捕らわれたときの拷問でできた傷。つまり、生涯背負わなければならない『恨み』の傷です」
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ソムソイ村虐殺を逃れたファム・ディン・タオさん(右)と父ファム・チュンさん。タオさんの口元の傷痕が惨劇を伝える (C)村山康文
 フーイエン省では韓国軍による虐殺地域が省内のあちこちに点在している。同省の村々で2年にわたる聞き取り調査を行い「フーイエン省の歴史書」を編纂したフーイエン新聞のファン・タン・ビン編集長(54)=同=は「韓国軍は66年から68年にかけて、北はビンディン省境にあるクーモン峠から南のカー峠の海側全域に駐留し、フーイエン省の至るところで1563人を虐殺しました。そのほとんどが婦女や子供、老人などの罪もない民間人です」と語る。
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「フーイエン省の歴史書」を編纂したファン・タン・ビン編集長 (C)村山康文
 「虐殺をした村での韓国軍の行動は、とても正気の沙汰とは思えません。婦女を輪姦し、乳房をナイフで切ったあと、女性器を銃剣でかき回し、殺害した。乳児の足を持ち、カエルの股裂きのように裂いた。一人の韓国兵が持つ銃剣に、輪投げのように子供を投げ落として殺害したなど、耳を疑うような証言をいくつも聞きました」(ビン編集長)。