年ごろの娘を皆の前で輪姦し射殺


 「百人のベトコンを逃がしても一人の民間人を保護せよ」。ベトナム戦争中、蔡命新(チェ・ミョンシン)初代駐越韓国軍最高司令官の「至上命令」が書かれた看板が、韓国軍が駐留していたベトナム中部のあちこちに立てられていたという。しかし、その命令に従った韓国兵は、ごくわずかだった。
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「百人のベトコンを逃がしても一人の民間人を保護せよ」の看板の写真を持つ元猛虎部隊の韓国兵 (C)村山康文
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ビンアン社にある壁画は虐殺の様子を生々しく伝える (C)村山康文
 韓国軍はフーイエン省の北に接するビンディン省でも虐殺を行った。66年2月13日から3月17日(旧暦1月23日から2月26日)にかけて起きた、ビンディン省タイソン県ビンアン社(注①)の韓国軍によるベトナム最大の虐殺事件。一カ月余の間に村全体で1925戸の住宅が破壊され、1004人の命が奪われた。

 中でも66年3月17日(同2月26日)にビンアン社のゴザイ集落で起きた「ゴザイの虐殺」は凄まじい。わずか2時間足らずで集落の住民380人を韓国軍は虐殺したとされる。現在、ビンアン社にある韓国軍による虐殺慰霊廟の片隅に、過去を忘れないようにと「ゴザイの虐殺」慰霊碑が建立されている。
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ビンアン社「ゴザイの虐殺」の慰霊碑。殺された380人の名前が刻まれている (C)村山康文
 ゴザイ集落にあるタイヴィン村で、腕や足に銃弾や手榴弾の破片の傷を負いながらも奇跡的に命を取り留めたグエン・タン・ランさん(62)=同2月=が、当時の様子を心憂い表情で語った。

 「百人以上の韓国兵が村に押し入ってきたのは、朝食を取ろうとしている時だったと記憶しています。各家から引きずり出された村人は一カ所に集められました。そして、村人の中から年ごろの娘を見つけた韓国兵が、娘の長い髪を引っ張って集団から引き離し、皆の目の前で輪姦を始めたのです。数人の兵士が順に事を済ませると、娘は容赦なく撃ち殺されました。その惨劇を見て発狂した村人らが韓国兵に襲い掛かろうとすると、次々に撃ち殺されていきました」
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タイヴィン村虐殺を目の当たりにしたグエン・タン・ランさん。今も銃弾や手榴弾の破片が腕や足に残る (C)村山康文

韓国内で史実を葬り去る動き


 韓国軍による無差別殺戮はフーイエン省やビンディン省だけにとどまらなかった。クアンガイ省のソンティン県などや、クアンナム省フォンニャット村・フォンニ村、ハミ村など、さらにカインホア省やダクラク省、ニントゥアン省でも無抵抗な民間人の虐殺があったとされる(「韓国の大量虐殺事件を告発する」)。

 韓国軍による1万人から3万人にも及ぶ大量虐殺。1968年3月16日に米陸軍のウィリアム・カリー中尉(虐殺を命令)率いる米兵部隊が、ベトナム中部のクアンガイ省ソンミ村(現ティンケ村)で村民504人の命を奪った「ソンミ村大量虐殺事件」は世界中の多くの人に知られているが、韓国軍がベトナム戦争時代に行った大量殺戮行為の詳細はあまり知られていない。

 それどころか、韓国軍がベトナムのいたるところで民間人を虐殺していた事実さえ知らない人も多い。

 なぜだろうか。

 米軍による民間人虐殺事件(ソンミ村大量虐殺事件)は事件から9日目に、虐殺を知った南ベトナム民族解放戦線の中部ベトナム委員会が「ソンミ村における米兵の犯罪行為を激しく糾弾する緊急宣言」を採択し、同4月16日にハノイ市で公表したことに加え、虐殺の現場に居合わせた複数の米兵が軍上層部に事件の内容を報告。翌69年9月に「ソンミ村大量虐殺事件」の見出しで米国メディアが書き立てたことなどにより、広く知られるところとなった。
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フォンニャット村とフォンニ村の住民74人がこの場所で、無抵抗のまま虐殺された (C)村山康文
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ハミ村の慰霊堂。慰霊碑裏面の碑文には国花の蓮をデザインした蓋がされている (C)村山康文
 一方、韓国軍による民間人虐殺事件に関しては、1990年代後半にベトナムの大学院へ留学していたク・スジョン通信員が、韓国軍による虐殺に関する内部文書をベトナム当局から入手。その情報を基にして徹底的に調査し、韓国の左派紙ハンギョレ新聞が発行する週刊誌「ハンギョレ21」99年5月6日号で「韓国軍はベトナムで民間人の大量殺戮をしていた」とスクープする。

 しかし、2000年6月27日に起きた韓国退役軍人会のメンバーによるハンギョレ新聞本社への激しい抗議活動など、史実を消し去ろうというソンミ村虐殺事件とは全く反対の動きが起きた。そのためか、韓国軍によるベトナム民間人虐殺の情報は、あまり知られていない。