中華民国の初代総統・袁世凱
 このような行動は我々日本人には理解しにくいところですが、もともと裏切りによってできた国であり、事大主義政策が国是とも言える朝鮮にとっては当たり前のことで、また一方の袁世凱にとっても朝鮮を牛耳る、またとない機会なので断る理由はなく、結局、割を食ったのは朝鮮独立のために援助し続けてきた挙句、いともたやすく裏切られた日本だけだということです。

  朝鮮の基本政策である事大主義を日本の諺で言えば「長い物には巻かれろ」という意味で、長年、大国に隣接してきた小国としては、ある意味当然の選択だったのかもしれません。当時の清は大国でしたが、一方の日本は、まだまだ弱小国だったのです。弱小国の日本は、この動乱で自国の公使館が襲撃を受け、軍事顧問や外交官が殺傷されましたが何も出来ず、朝鮮独立のために尽くした日本の努力は水泡に帰したのでした。

 こうして朝鮮は王の外威である閔氏一族が近代国家への道を閉ざし、再び国民の生活を顧みない政治を行うようになりました。しかし、朝鮮にも心から祖国を憂う骨のある人間がおり、この二年後にクーデターを起こして閔氏一族を追放し、国王を皇帝と改め朝鮮の独立を宣言しました。ところが、またも閔氏の要請により出動した清軍によって独立派が駆逐され朝鮮の独立はわずか三日で終わってしまいました。まったく自国の独立運動を自国民が妨害するのですから、どうしようもありません。

 結局のところ、この時代の朝鮮の権力者たちは己の権力を如何に保持するのかという事しか頭になく、国家の独立、ましてや民の暮らしの事などは全く考えていなかったのです。そして、この動乱の際にも、また多くの日本人居留民が犠牲になりました。このような私利私欲のための裏切り行為や反対派に対する鬼畜のような残忍な所業を目の当たりにして、忍耐強い日本人の中にも朝鮮や清に愛想を尽かす人が多くなり始め、その意見の代表的なものが、このころ発表された福沢諭吉の「脱亜論」です。

 日本としては自身が関与しなくとも朝鮮が名実ともに独立してくれさえすれば良く、あえて手のかかる朝鮮半島から手を退きたかったのですが、その後に清が居座るようになっては困るので、天津条約を結び両国が同条件で撤兵することとしました。このとき日本は外国からの侵略などの特殊なケースを除き朝鮮半島から永久に撤兵すべきであると主張しましたが、清としては属国である朝鮮の内乱などに「宗主国が出兵するのは当然だ」と一歩も譲らず、最終的に互いの国が、今後、朝鮮半島に派兵する場合は相互通知することで合意しました。

ロシアにすり寄る朝鮮


 ようやく日清両国が兵を退き、平和になるかと思われた朝鮮半島でしたが、相変わらず朝鮮は自立するでもなく、新たな後ろ盾を求めて今度はロシアに接近し始めました。そんなことをすれば宗主国の清が黙っているはずもなく、袁世凱は閔氏一族のライバルである大院君を伴って朝鮮に乗り込み朝鮮政府を指導する立場に就任しました。

 しかし、それでも朝鮮国王はロシアへの接近を止めませんでした。その心境は「自分で独立するのは面倒なので誰かに頼りたいが、特定の誰かには支配されたくない」という感じなのでしょうか、清の顔色を伺いながら、あちこちの国に色目を使うさまは、なんとも哀れとしか言いようがありません。

 それでも朝鮮政府は一定の開化政策を試み、欧米諸国から借金をしようとしますが、朝鮮独自の発展を望まない宗主国の清が許すはずもなく、様々な政策が、ことごとく失敗に終わり、それでも王侯貴族たちは民衆の生活を顧みなかったので、庶民の間にどんどんと不満が高まっていきました。

 そして1884年に朝鮮国内で大規模な反乱が起きたのですが、事態を収拾する能力がなかった朝鮮政府は、またも清に派兵を要請しました。それを受けた日本も過去の動乱で自国民が虐殺された経験から、天津条約に基づき居留民保護のために派兵しました。そして反乱が収まっても日清両国が一歩も引かず、とうとう戦争になったのです。それが日清戦争です。

 この戦争は詰まる所、朝鮮における日清両国の権力闘争でしたが、その影響は朝鮮半島にとどまらず、広く、その後のアジアの運命を大きく変えました。もし、清が勝利していれば、朝鮮はもとよりアジアの多くの国は、今でも欧米の支配下にあったかもしれません。

 何故ならば、日本が朝鮮の独立のために戦ったのに対して、清は現状維持=植民地支配肯定が戦争の目的だったからです。事実、日本は「宣戦ノ詔勅」から「講和条約」に至るまで終始一貫して朝鮮の独立を謳い、そのために戦いました。
日清講和条約が締結された割烹旅館。日清講和記念館には
会議の様子を描いた画なども展示している
 それは、日清講和条約(下関条約)第一条を見れば良く分かることで、そこには「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」と明記されています。

 講和条約=戦争の目的=朝鮮の独立ということで、しかも条約において一番重要なことを定める第一条に明記されているのですから、これ以上の説明は不要でしょう。なにも日本が純粋に朝鮮の独立のためだけに戦ったと言うつもりはありません。当然、自国の利益のために戦ったのですが、いくら自国の利益のためとは言え、古今東西、当事国が何もしないのに、勝てる見込みの少ない戦争を他国の独立のために多大な犠牲を払って戦った国があったでしょうか。

 そして、その言葉通り朝鮮は、日本の勝利により有史以降初めて独立したのでした。その象徴が、それまで建っていた属国の証である「迎恩門」(歴代朝鮮王が中国皇帝の使者を迎えるために建てられていた門)を取り壊し、文字通り朝鮮の清からの独立を記念して、その隣に建てられた「独立門」です。