独立門は、現在も韓国の首都ソウルにある西大門に建っていますが、多くの韓国人が、この門について日本から独立したときに建てられたものだと誤解しています。普通に考えると、この門が完成した1897年11月20日という日付を見れば、直ぐその間違いに気が付きそうなものですが、それすら分からないということは、韓国において歴史は事実である必要がないということなのでしょう。

 もう一点、韓国の歴史観を教えてくれるのが、この「独立門」の扁額は李完用の作品だということです。彼は日韓併合条約に調印した人物で、本当のところはともかく韓国国民からは親日派=売国奴ナンバーワンとも言われ、2007年に作られた事後法により、彼の子孫は財産を強制的に没収されるくらい憎まれています。

 それなのに、その彼の作品が史跡として登録され、そこに多くの人が観光に訪れているのを見れば、いかに韓国国民の多くが歴史の事実を知らないのかということが良く分かります。

 さて、それはともかく日本と清の講和条約により、目出度く独立国となった朝鮮。日本としては多大な犠牲を払って獲得した独立ですから、彼らが自力で国家発展の道を歩んでくれるものと期待していましたが、そうはいかないのが朝鮮という国です。
 彼らは、口では独立と言っていましたが、とても当時の国際社会の荒波を乗り切っていけるだけの力はなく、彼らも本心は独立が現実的ではないことを理解していました。ですから、当初は単に宗主国を、戦争に負けた清から勝った日本に乗り換えるくらいのつもりだったのでしょう。

 しかし、日清講和条約締結のわずか6日後に起きた「三国干渉」により、事態は一変します。三国干渉とは、日清戦争において日本の勝利が濃厚になり、自国の満州や支那における権益に対して危機感を持ったロシアがドイツとフランスを巻き込んで日本に圧力をかけ、日本に日清戦争で血を流して獲得した大陸における権益を放棄させた事件です。

 その大義名分が、日本が遼東半島を所有すれば「極東平和の妨げになる」というものでした。しかし、日本が放棄させられた権益は、その後、彼ら自身があの手この手で清から奪いとったのですから無茶苦茶という他ありません。しかし、この時代は力こそ正義であり弱小国日本としては黙るしかありませんでした。一つ言える事は、いつの時代も臆面もなく「平和」という言葉を使う人間や国は信用出来ないということです。

 その結果、朝鮮は宗主国を日本からロシアへと乗り換えました。朝鮮としては、宗主国は強いことが第一条件ですから、より長いものにまかれることは当然の行動でした。しかし、日本としては多大な犠牲を払って獲得した朝鮮の独立や日本の権益が失われることを座視できるはずもなく、それに呼応した日本派とロシア派の争いが朝鮮政府内で勃発し、しまいには国王がロシア公館に逃げ込む事態にまで発展しました。

 その後、国王を手の内に取り込んだロシアは朝鮮での権益をどんどんと拡大させていきます。日本としては日清戦争で多大な犠牲を払ったにもかかわらず大陸での権益を三国干渉で横取りされたうえ、また朝鮮での権益を横取りされそうになっているわけですから、たまったものではありませんでした。

 しかも、前述したとおり朝鮮をロシアにとられるということは権益云々というより国家としての死活問題なわけですから、これだけは譲れなかったのです。当初、ロシアに対して大幅に国力が劣る日本は懸命に外交努力を重ねましたが、力(軍事力)なき外交はみじめなものでした。