2020年06月10日 13:03 公開

キャメロン・ヴァーク、BBCニュースビート記者

「私たちはイギリスにずっといた。先駆者として。発明家として。注目される存在として。その後に植民地主義が始まって、それが黒人の経験を決定してきた。けれども私たちはそれだけではない」

イギリスの学校で黒人の歴史を教える組織「ブラック・カリキュラム(黒人教育課程)」を立ち上げた、ラヴィニヤ・ステネットさんの言葉だ。「ブラック・カリキュラム」は現在、黒人史をイギリスの学校の必修科目にするよう、ギャヴィン・ウイリアムソン教育相に働きかけている。

アメリカでジョージ・フロイドさんが死亡したのを機に、イギリスでも何万という人が正義を求めて立ち上がり、主要都市の通りを行進している。

この国で「Black Lives Matter」と抗議する人たちは、イギリスも決して潔白ではないと主張する。しかし、イギリスにも人種差別があるのか、差別があるならどの程度あるのか、疑問視する人もいる。

(訳注:「Black Lives Matter」というスローガンは、2013年から2014年にかけてアメリカで使われ始め、2014年8月に南部ミズーリ州ファーガソンで18歳の黒人男性が白人警官に射殺されたのを機に、全米的な抗議運動と共に広がった。「白人と同じように黒人の命にも意味がある」という意味が込められている)

ジョージ・ザ・ポエット

BBCの報道番組「ニューズナイト」でこの点について質問された詩人のジョージ・ザ・ポエットさんは、イギリスの黒人史と大英帝国について教育が不十分で、それがイギリス国内の人種差別や、人種差別に関する対話に影響していると答えた。

<関連記事>

イギリスの学校が教える黒人の歴史といえば、大西洋を行き来した奴隷取引やアメリカの公民権運動の話ばかりだ。授業はたいていは、「黒人史月間」の10月にある。

「色々な歴史や色々な視点から見た出来事の流れについて、語るのを省いてしまうと、この人たちはこの国の一部ではない、この国の民の、この国の伝統の一部ではないと言うに等しい。あるいは、一般知識として教えるだけの価値がない人たちだと言っているようなものだ」。ブラック・カリキュラムの政策担当、メロディー・トライアンフさんはこう言う。

イギリスの学校で教えられてこなかった、イギリスの黒人の歴史から、ほんの少しだけ逸話を紹介する――。

1. 象牙アクセサリーの女性

イギリスに初めて黒人が到着したのは、第2次世界大戦後のことだと思っている人もいるかもしれない。イギリスが場合によっては何世紀も植民地支配したアフリカやカリブ海やアジアの国々から、やってきた人たちだと。

実際にはそうではないと、「ブラック・カリキュラム」のラヴィニヤさんは言う。

「イギリスにはローマ時代から黒人がいたのは分かっている。具体的な事例もある」

イングランド北部ヨークで1901年に発見された遺骨は、「象牙のアクセサリーの女性」という名前でヨーク博物館に展示されている。考古学調査の結果、ローマ帝国時代のブリテンで生まれたこの女性は、おそらく北アフリカ系だということが分かっている。

遺骨は紀元4世紀の後半のものだと、年代が特定されている。

黒玉や象牙のブレスレット、イヤリング、ペンダント、ビーズ、青いガラスの水差し、そしてガラスの鏡と共に発見された。つまり、貧乏ではなかったということだ。

「黒人は財を求めなかったとか、財産は何も持たなかったなどという思い込みに、疑問を投げかける」と、ステネットさんは言う。

2. ヘンリー8世の黒人らっぱ吹き

チューダー朝時代には何百人もの黒人移民がイングランドに住んでいた。チューダー朝と言われてピンとこなければ、それは1500年代のことだ。

アフリカ出身のらっぱ吹き、ジョン・ブランクもその1人だった。1511年の有名なウエストミンスター競技会を描いた、長さ18メートルもの巻物に描かれている。ウエストミンスター競技会とは、ヘンリー8世が息子の誕生を祝って大々的に開いた祝宴のことだ。

ジョン・ブランクがヘンリー8世に昇給を嘆願した書簡さえ残っている。

「1日8ペンスにしてくださいとお願いしていた。今の貨幣価値に換算していくらなのか分からないが、自分の価値をきちんと理解していたのが分かる」と、ラヴィニヤさんは言う。

3. イギリス初の黒人王妃?

ドイツから輿入れしたこの王女は、1761年に国王ジョージ3世と結婚して、イギリスの王妃になった。多くの歴史家は、シャーロット王妃にはアフリカ系の先祖がいたと考えている。

シャーロット王妃は、ジョージ4世とウイリアム4世という2人の国王の母になった。

王妃はドイツ出身ではあったものの、ポルトガル王家のアフリカ系の先祖がいたという説がある。

ポルトガルの国王アフォンソ3世は13世紀、南部ファロをムーア人から奪った。ムーア人とは、現代スペインや中世ポルトガルに住む北アフリカ出身のイスラム教徒だ。アフォンソ国王は、ファロ総督の娘と子供を3人もうけたと言われている。

3人のうちの1人、マルティム・アフォンソ・チチョッロも、アフリカ系の妻と結婚したとされる。妻イネス・ロウレンコ・デ・ソウサ・デ・ヴァラダレスと共にソウサ=チチョロ家の初代となり、その多くの子孫の中に、シャーロット王妃がいる。

そして、シャーロット王妃のひ孫と言えば? ヴィクトリア女王その人だ。

4. 目の前にあるのに見えていない

シャーロット王妃にアフリカ系の先祖がいたかどうかはともかくとして、イギリス王室の一員になった時代は、イギリスが奴隷貿易を開始した時代でもあった。そしてイギリスは、奴隷貿易によって巨万の富を得た。

「ロンドンの黒人の歴史から始めることがほとんどです。ロンドン中心の教え方が多い。けれども実は、スコットランド・グラスゴーが財を築いたのは、タバコや砂糖や綿花のおかげ。これは、カリブ海のジャマイカやトリニダド、バルバドスで、奴隷労働によって栽培され維持されていた作物です」と、ステネットさんは話す。

グラスゴーの目抜き通りの多くは、農園で財を築いた18世紀の奴隷主の名前を冠している。

「黒人は奴隷だったと教わる。けれども、その奴隷労働の成果によって造られた道路の上を自分が歩いているのだとは、決して教わらない」

奴隷制について教育するのは大事だが、その「文脈をきちんと伝える」必要があるとステネットさんは言う。

「誰がそれで得をしたのか、話すべきです。植民地にいた人だけではなく、ここイギリス本国でも」

ということはつまり、「イギリスの奴隷貿易廃止運動に関わったスコットランドの黒人たち」についても、学校で教える必要があるとステネットさんは話す。

イギリスの奴隷貿易廃止と言えば、そのために運動した「ウイリアム・ウイルバーフォースの話しか聞こえてこない」とステネットさんは言う(訳注:政治家ウイルバーフォースは2007年映画「アメイジング・グレイス」などで描かれている)。

5. 第1次世界大戦と人種暴動

カリブ海地域からイングランドへの移民というと、1948年から1971年にかけて「ウインドラッシュ号」に乗って移住した「ウインドラッシュ世代」のことを思いがちだ。

「けれども実を言えば黒人は、第1次世界大戦の兵士としてジャマイカから連れてこられている」。そういうステネットさんの大叔父はそうして17歳のときにイングランドに移住し、戦後はロンドンに定住した。

戦後に送還されなかった大叔父は「幸運だった」そうだ。

第1次世界大戦後に兵士たちが帰還したイギリスは、働く当てもチャンスも少ない場所だった。

「白人は、自分たちに職がないのは黒人のせいだと思い込み」、それが黒人コミュニティーへの暴力のきっかけになったという。

1919年にグラスゴー、リヴァプール、カーディフなどイギリス各地の港町で人種暴動が起きたのはそのためだ。3人が死亡し数百人が負傷した。

人命だけでなく、経済的な影響もあった。多くの産業で、白人労働者が労組の後押しを受け、黒人と肩を並べて働くことを拒否した。このため多くの黒人兵士や労働者が失業者となった。

戦争のためイギリスに連れてこられた黒人男性の多くが、戦前の居住地に送還された。

この時期の人種暴動では貧困や失業が大きな要因だったが、黒人男性と白人女性が所帯を持ち子供を作るのではないかという懸念も影響していたと、研究者のジェイミー・ベイカーさんは言う。

「黒人男性を過剰に性的な存在に仕立てた文脈にもあてはまる。黒人男性が白人女性を自分たちから奪ってしまうと、白人男性は強迫観念を抱いていた」と、ラヴィニヤさんは説明する。

6. ブリストルのバス・ボイコット

第2次世界大戦が終わるとイギリスは、カリブ海やアフリカの黒人、そしてインド人の移住を奨励し、国の再建に協力して欲しいと求めた。

そして移住した人たちは、国民医療制度の国民保健サービス(NHS)など、公共部門の仕事に就いた。たとえば、市バスを運転するといった。

しかし、南西部ブリストルで自治体が運営するオムニバス社は、黒人やインド系の運転手の採用を拒否した。これを機に、やがて市内全域でバスがボイコットされるようになった。

「けれどもことはそれほど単純ではなかった」とステネットさんは言う。当時は人種を理由にした差別は違法ではなかった。イギリス初の人種関係法は1965年に成立したが、雇用や住宅についての規定が含まれたのは1968年になってのことだった。

ボイコットを主導したのは、ポール・スティーヴンソンさん、ロイ・ハケットさん、ガイ・ベイリーさんの3人だった。スティーヴンソンさんは、1955年に米アラバマ州モンゴメリでローザ・パークスさんの抵抗がきっかけになったバス・ボイコット(パークスさんはバス後方の「有色人種」席に座ることを拒否した)を参考に、ブリストルでこの活動を始めた。

ハケットさんは、バスが街の中心部に入れないよう、道路封鎖や座り込み抗議を実施する中心になった。

「子供を学校に連れて行くとか、会社に出勤するとかの白人女性たちが、いったい何をやっているのかと尋ねてきた」と、ハケットさんはかつてBBCに話した。「その人たちは後から、ボイコットに参加してくれた」。

ブリストルの学生たちもボイコットを支援したし、地元選出のトニー・ベン下院議員(労働党)や、翌年に労働党党首になったハロルド・ウイルソン(後の首相)も、ボイコットを応援した。

アメリカでマーティン・ルーサー・キング牧師がワシントン大行進の後に「私には夢がある」という有名な演説をしたのは、1963年8月28日のことだった。その翌日にはブリストルのオムニバス社が、夏の間中続いたボイコットに屈して、人種差別政策の変更を発表した。

続く9月半ばには、ブリストル初の白人ではないバスの車掌が登場した。1959年以来ずっとブリストル在住のインド出身シーク教徒、ラグビル・シンさんだ。その後は次々と、黒人や南アジア系がバスで働くようになった。

スティーヴンソンさん、さんハケット、ベイリーさんの3人はいずれも後に、大英帝国勲章(OBE)を叙勲された。

(英語記事 The black British history you may not know about