当時、政府内の公安機関を含む多数の北朝鮮専門家は、「北朝鮮が拉致は捏造だと主張しており、実名を出すと証拠隠滅のために、その被害者に危害が加えられるので、やめた方がよい」という意見だった。

 1988年3月の参議院予算委員会で、当時国家公安委員長だった梶山静六氏が、拉致被害者の蓮池薫さん、祐木子さん夫妻ら3件6人のアベック失踪事件などについて政府として初めて「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」だとした歴史的答弁でも、実は質問と答弁の両方で被害者の実名は伏せられ、拉致現場の地名だけが言及されていた。

 横田家の中でも、母の早紀江さん、双子の弟の拓也さん、哲也さんは、実名を出すことを躊躇(ちゅうちょ)していた。早紀江さんは、「20年間めぐみがどこのいるのかさえ分からなかった、その間、めぐみはこれまでお父さん、お母さん、いつ助けに来てくれるのと思い続けてきたはずだ、やっと北朝鮮にいるということが分かった。そのとき、親が最初にとる行動がめぐみを危険にさらすかもしれないということは耐えがたい」として実名での訴えに反対したと聞いた。

 しかし、滋さんが毅然としてこう説得したという。「拉致が起きてから20年間、日本は真剣に救出に取り組んでいなかった。このまま、新潟出身のYさんという曖昧な形で報道がなされても、マスコミはすぐ忘れてしまい、世論は盛り上がらないだろう。そうなれば、また20年、何も起きず、親たちは死んでいき、拉致された子供たちも拉致されているとことさえ明らかにならないまま死んでいくだろう。一定のリスクはあるが世論に訴えよう」と。それを受けて横田家が記者会見で実名と写真を公開したのだ。

 私は朝鮮研究者として、1991年に『諸君!』という今はなき月刊誌に、日本人が拉致されているという論文を書いた。当時、公安機関関係者を含む多数から「身の危険はないか」という質問を受けた。また、「殺してやる」という匿名の脅迫状を受け取ったこともあったが、拉致問題は闇の中に隠れていた。それを打ち破ったのが滋さんの決断だった。

 滋さんの決断に接して他の拉致被害者の家族も実名での訴えを決断され、家族会ができた。それを横で見ていた私を含む少数の専門家と国民有志が、ここまで重い決断を家族がしたのに世論が盛り上がらなければ、日本はおしまいだと考えて、家族会を支援して救出運動に取り組む「救う会」を各地で結成した。
街頭で拉致被害者の救出を呼びかける横田滋さんと早紀江さん=1997年5月、新潟市
街頭で拉致被害者の救出を呼びかける横田滋さんと早紀江さん=1997年5月、新潟市
 1998年にその連合体として「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)を作った。それから、滋さんは日本全国そして世界各地まで、拉致問題を訴える機会があればどこでも出かけていった。私もかなりの場所にご一緒した。

 当初、ほとんどのマスコミは拉致疑惑と書いて、大きく扱うことはなかった。特急列車を乗り継いで3時間以上かけて集会場に着くと、10人未満の聴衆しかいないということも何回もあった。