2020年06月12日 13:59 公開

英イングランドで7日、反人種差別デモの参加者たちが17世紀の奴隷商人エドワード・コルストンの銅像を引きずり下ろし、直ちにブリストル湾に放り込んだ。そのメッセージははっきりしていた。

エドワード・コルストンの船でアフリカやアメリカ大陸から約8万人の男性や女性、子どもたちが運ばれたと考えられている。しかしコルストンの莫大(ばくだい)な富の恩恵をうけた故郷の町、南西部ブリストルでは数世紀にもわたってコルストンはたたえられてきた。

英政府は7日の出来事を非難したが、抗議者たちは変革を意味するものであることを望むとした。

歴史学者のデイヴィッド・オルソガ氏は、「銅像は『素晴らしいことを成し遂げた素晴らしい男だった』と主張しているが、それは真実ではない。コルストンは奴隷商人であり、殺人者だった」とBBCニュースに述べた。

ブリストルのような世界的な抗議デモは、様々な都市の植民地時代や奴隷制度の歴史、そしてそうしたものを象徴する人物にスポットライトを当てている。

ヘンリー・ダンダス

スコットランドの中心都市エディンバラには、奴隷制度廃止を遅らせた政治家の記念塔がある。そこには白人警官に首を圧迫されて死亡した米黒人男性の名前「ジョージ・フロイド」や、「BLM」(Black Lives Matter、白人と同じように黒人の命にも意味があるという意味が込められている)の文字がスプレーで書かれている。

同市のセント・アンドリュー広場にある、この高さ46メートルのメルヴィル記念塔は、ヘンリー・ダンダスを記憶にとどめようと1823年に建てられたもの。

ダンダスは18世紀と19世紀における英国内で最も影響力のあった政治家の1人で、「無冠の王」の異名をもっていた。

奴隷制度を1792年に廃止したはずの法案に修正案を提出。より「段階的」に進めることを選んだ。

これにより奴隷制度は、15年も長く続くこととなった。

何千人もの人たちがこの記念塔の撤去を求める請願書に署名している。

記念塔をめぐる抗議の最中、当局は同市の奴隷制度とのつながりについて「思慮した」詳細を記した刻板を追加すると発表した。

「我々は背景を伝え、世界におけるエディンバラの歴史的役割を人々に理解してもらう必要がある。我々が誇りに思っていることだけでなく、率直に恥じていることも含めて」と、エディンバラ市議会トップのアダム・マクヴェイはBBCスコットランドに述べた。

レオポルド2世

ベルギーの人々は、同国で在位最長の王レオポルド2世の像を撤去するよう求めている。

オンラインの請願書には何万人もの署名が集まった。一方で、一部の反人種差別の抗議者たちはより直接的な行動を取った。

ヘント市にある植民地時代の王の胸像は赤いペンキで覆われ、頭部には「息ができない」と書かれた布がかけられた。この言葉は、ジョージ・フロイドさんが最後に発した言葉を想起させる。

アントワープでは、別のレオポルド2世の像が抗議者に放火され、その後当局によって撤去された。博物館に移したという。首都ブリュッセルの像には「暗殺者」と書かれた。

レオポルド2世は1865年から1909年までベルギーを統治したが、最も人々の記憶に残っているのは、コンゴ(旧ザイール)での恐ろしい遺産だ。

1885年から1908年の間、欧州で最も小さな国の1つの君主だったレオポルド2世は、当時コンゴ自由国として知られていたコンゴを自分の私的植民地にしていた。

コンゴ自由国を巨大な強制労働所に変え、ゴム貿易で財を成した。奴隷労働に抵抗した人々は銃殺されることが多く、レオポルド2世の私兵たちは犠牲者の手を回収するよう命じられた。

レオポルド2世は推定1000万人ものコンゴ人を殺害したほか、ベルギーの人間動物園にコンゴ人を収容した。

1908年、レオポルド2世はコンゴ自由国の支配を放棄せざるを得なくなった。しかし、実際にコンゴ自由国がベルギーから独立したのは1960年だった。

レオポルド2世の像の撤去に反対する人の一部は、ベルギーの富はレオポルド2世の統治下で貿易が成功したことによるものだと主張している。

ロバート・エドワード・リー

米ヴァージニア州は、南部連合の軍司令官を務めたロバート・エドワード・リーの像を撤去することとなった。この像はフロイドさんの事件に抗議する人たちに傷つけられた。

1890年に建てられた重さ12トンの記念像の撤去決定を発表したラルフ・ノーサム州知事は、「我々はもはや誤った歴史の内容を説いたりしない」と述べた。

「あの像は長い間あそこにあった。しかしそれは間違ったことだったし、今でも間違っている。だから撤去する」

この像は、州都リッチモンドのモニュメント通りにある南部連合軍の人物の5つの像の1つ。抗議デモの最中に「白人至上主義をやめろ」と落書きされた。

リーは1861年から1865年まで続いた南北戦争で、奴隷制を推進する南部連合軍で司令官を務めた。

奴隷を所有するヴァージニア有数の裕福な家庭の女性と結婚し、義父の死後は軍を離れて家の財産を相続。解放を期待していた奴隷たちの抵抗に遭った。

複数の資料によると、リーは脱出しようとする奴隷を激しく殴打することを推奨していた。奴隷の家族をばらばらに引き裂いたとも言われている。

アメリカでは多くの人が、リーをアメリカの奴隷制度と人種的抑圧の歴史の象徴とみなしている。

ほかの南部連合軍の人物の像も、抗議者によって汚されている。

南部連合軍の像はそのまま残すべきだと考える人の中には、アメリカ史と南部文化を記録し伝えるものだという意見もある。

ウィンストン・チャーチル

英ロンドンでは、元首相サー・ウィンストン・チャーチルの像に「人種差別主義者」だと落書きされた。

チャーチルは第2次世界大戦でイギリスを勝利に導いたとして、称賛される人物。

イギリス政府のウェブサイトには、「感動的な政治家で、作家で、雄弁な語り手で、指導者」だったとある。また、2002年にBBCが行った「最も偉大なイギリス人」の世論調査では1位だった。

しかし一部の人にとっては、ひどく物議を醸した人物であることに変わりはない。人種に対するチャーチルの見解がその理由のひとつだ。

「チャーチルが人種差別主義者だったことは、まったく疑いようもない」。近刊「The Churchill Myths」の共著者、歴史学者のリチャード・トイ氏はこう言う。「チャーチルは確実に白人が優れていると考えていた。はっきりとそう言っていた」。

「チャーチルは、インド人はけがらわしい宗教を信仰するけがらわしい人間などと不快な発言をしていた。中国人についても不快なことを言っていた。まだまだある」

「もちろん、チャーチルはヴィクトリア朝時代に生まれ育った人で、その影響は念頭におく必要がある。しかし、それが必ずしも、人種に関するチャーチルの見解に決定的な影響を与えたわけではないい。考え方は時間と共に揺れ動いていたので」

「Churchill: The End of Glory」の著者ジョン・チャームリー氏は2015年にBBCに対し、チャーチルは人間の属性による優劣を信じていたと話した。それによると、白人のキリスト教プロテスタント教徒がヒエラルキーの最上位で、白人のカトリック教徒が2番目。チャーチルの中では、アフリカ系よりもインド人が上位だったとチャームリー氏は話した。

チャーチルは1937年、パレスチナ王立委員会に次のように述べた。「例えばアメリカの赤い肌のインディアンあるいはオーストラリアの黒人に対して悪行が行われたなど、私は認めない。より強く、より上級で、より世才があると言える人種がやってきて彼らの場所を奪ったのであり、こうした人たちに悪行が行われたとは認めない」。

チャーチルはまた、ユダヤ人やイスラム教に関する発言や、200万人以上が死亡した1943年のベンガル大飢饉における対応があまりに不十分だったと、批判にさらされてきた。

チャーチルの孫のサー・ニコラス・ソームズは過去に、祖父チャーチルは「エドワード朝時代の申し子であり、その時代の思想を口にしていた」と述べている。

(英語記事 The stories behind the statues targeted in protests