2020年07月12日 11:47 公開

旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ内戦末期に、ボスニア東部のスレブレニツァでイスラム教徒系の住民が多数虐殺された、いわゆる「スレブレニツァの虐殺」から25年となり、現地では追悼式典が開かれた。最近になって新たに身元が確認された9人の犠牲者の合同葬儀も執り行われた。

スレブレニツァ郊外にある、スレブレニツァ・ポトチャリ追悼記念碑と墓地で、追悼式典と葬儀が行われた。例年は数万人が参列するものの、今年は新型コロナウイルスの感染対策のため人数制限などが実施された。

約100人の来賓も、マスクをつけて出席し、社会的距離を保つために互いに離れて座った。

式典では遺族や関係者が話をしたほか、ビル・クリントン元米大統領や英王室のチャールズ皇太子など、各国要人からのビデオメッセージも再生された。

戦後欧州で最悪の虐殺

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(1992~1995年)の末期、1995年7月にセルビア人勢力がスレブレニツァでイスラム教徒系の男性を計約8000人殺害した。第2次世界大戦後の欧州で起きた最悪の虐殺事件となった。

当時は国連平和維持活動部隊としてオランダ軍がスレブレニツァを警備しており、セルビア人勢力の進軍を受けて約2万人のボシュニャク人(イスラム教徒系ボスニア人)が避難していたものの、7月11日にセルビア人勢力がスレブレニツァを占拠した

オランダ軍は降伏し、セルビア人勢力は2週間のうちにボシュニャク人の男性を、少年を含めて隔離し、次々に虐殺した。遺体はブルドーザーで穴に埋められた。中には生き埋めにされた人や、子どもの殺害を強制的に見せられた親もいたという。

この間、軽装備の国連部隊は虐殺を止めようとしなかった。後に当時のコフィ・アナン国連事務総長は、「スレブレニツァの悲劇は国連の歴史に永遠に影を落とす」と述べた。

25年たってやっと埋葬

昨年中に新たに身元が確認された犠牲者9人は、花の形をしたポトチャリの共同墓地に埋葬された。

フィクレト・ペジッチさんはロイター通信に、「父親を埋葬します(中略)ここにいる犠牲者の中でも特に高齢でした」と話した。

「父の遺体を見つけ出すまでに25年かかった。父はようやく安らかに眠ることができます」

式典に実際に出席して発言した来賓は多くなかったものの、その1人の遺族団体「スレブレニツァの母たち」のムニラ・スバシッチ代表は、「戦争犯罪人たち、虐殺という罪を犯した者たちに、まずこう告げる」と切り出した。

「私たちは決して飽くことなく、お前たちを追い詰め続ける。常に私たちの誰かがお前を追い詰める。それが私たちの権利で義務なので」

「集合的良心についた恐ろしい染み」

クリントン元大統領は25年前の虐殺について、「自分たちが共有する人間性に背を向けると、全員がどれほどのものを失うか、ひどすぎる形で思い起こさせた」と述べた。

チャールズ英皇太子は、虐殺を「私たちの集合的良心についた恐ろしい染み」と呼び、「殺害された人たち、何とかして生き延びた人たち、そして愛する人のたまらない喪失を耐え抜いた人たち――。この人たちに国際社会は応えなかった」と話した。

ボリス・ジョンソン英首相は、「多くの加害者がまだ責任をとらされていない」として、「正義を求める戦いで遺族たちを支えたい」と述べた。

スレブレニツァで何が起きたのか

1995年7月初旬、ボツニアのセルビア人勢力はスレブレニツァ近くの地域を包囲した。その地域は国連によって「安全地帯」に認定され、軽武装のオランダ軍部隊600人によって守られていた。

セルビア人勢力が南から攻撃を始めたため、多数のボシュニャク人市民や戦闘員が北にあるスレブレニツァに逃げた。セルビア人勢力がさらに進攻すると、ボシュニャク人はポトチャリのオランダ軍部隊の主要な基地に逃げた。

戦闘激化に伴いオランダ軍は降伏。推計2万3000人の女性や子供たちがバスでボシュニャク人の支配地域に搬送されたが、セルビア人勢力は12~77歳の少年や男性を集団からより分けた。

翌13日に、非武装のボシュニャク人たちが近くの村クラヴィツァで殺害されたことを皮切りに、スレブレニツァ周辺で4日間にわたり約8000人のボシュニャク人男性や少年たちがセルビア人勢力によって殺害された。

(英語記事 Srebrenica: Bosnia marks 25 years since massacre