小和田哲男(静岡大名誉教授)

 戦国武将で、後世、「治水名人」として知られたのが武田信玄と加藤清正である。2人とも「土木の神様」などと呼ばれ、「信玄堤」「清正堤」として、その治水事業が語り伝えられている。本稿では、武田信玄の治水について見ていくことにしたい。

 信玄の領国である甲斐国には笛吹(ふえふき)川と釜無(かまなし)川が流れ、それが合流して富士川となって、駿河湾に流れ込んでいる。ところが、この二つの川は、源流から盆地部分までの距離が短いこともあって、少しまとまった雨が降るとすぐ洪水を引き起こしていたのである。

 信玄の父、信虎の時代は、そうした自然条件を克服することができず、水害被害で国が疲弊していったのである。結局、そうした信虎に代わり、いわゆる「信玄のクーデター」によって父を駿河に追放し、武田家の家督を継いだ信玄は、国内の安定のため、本格的な治水工事に取り組むことになった。むしろ、取り組まざるをえなかった、と言うべきかもしれない。

 現在、信玄堤の名で知られている堤防は、笛吹川の万力堤と近津(ちかづ)堤、釜無川の竜王堤などがある。もっとも、実際には信玄が直接手がけたものではないが、いわゆる「信玄流法」になる堤防も合わせれば、かなりの数になる。

 では、信玄が得意とした「信玄流川除法(かわよけほう)」とはどのようなものだったのだろうか。ここでは、最も分かりやすい釜無川の竜王堤を具体例として取り上げ、信玄の治水の実際を追いかけてみたい。

 竜王堤は釜無川の東岸に築かれた。今でも堤防はあるが、信玄の時代から何度も改修されているので、当時のままでないことはいうまでもない。ただ、場所そのものには変化がなく、技術的な特徴を追いかけることは可能である。

JR甲府駅前の武田信玄像=2008年12月(吉沢良太撮影)
JR甲府駅前の武田信玄像=2008年12月(吉沢良太撮影)
 釜無川の水源地は鋸岳(のこぎりだけ)で、甲信国境から南に流れ、いくつかの支流を合わせて次第に水量を増し、甲府盆地へ流れ込んでいる。その支流の一つが御勅使(みだい)川だった。

 この御勅使川、現在はこの字が書かれているが、本来は、「みだれがわ」あるいは「みだしがわ」だったのではないかといわれている。「みだれがわ」だと乱川、「みだしがわ」だと水出川で、いずれにしても洪水の元凶といったイメージがあり、御勅使川という字にしたという。実際、釜無川本流と御勅使川の合流地点が洪水常襲地帯となっていたのである。

 信玄の治水術で特筆されることの一つは、この御勅使川の流路変更だ。御勅使川が釜無川に合流する少し手前で、川を二つに分流させているのである。