上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

 「大久保容疑者はどんな人でしたか」

 多くのメディアから連絡があった。大久保容疑者とは大久保愉一(よしかず)医師。7月23日に筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の女性に対する嘱託殺人容疑で京都府警に逮捕された人物だ。

 筆者と大久保氏は、彼が厚生労働省の医系技官であった頃からの10年来の付き合いだ。真面目で正義感が強く信頼できる人物だった。常に日本の医療をよくしたいと考えていた。その姿勢は、彼が医系技官を退職するときに送ってきたメールにも表れていた。

 「3月末に辞めるまでに何かを残せたらと思います。医師が自ら律するようになり、国試をいずれ肩代わりするまでつなぎになるような何かを。せこい話ではありますが、これまでスタックしていたものが動けばよくなり、風通しがよくなり、教育関係者の士気が上がり、学生のやる気にもつながるのではと考えています。国任せではなく、自分たちで考える環境づくりに一役買えるのではと思うのです」

 大久保氏は厚労省が管理する医師国家試験の在り方に疑問を感じていた。問題意識は筆者も同じだった。大久保氏は腹が据わっていた。あるとき、彼から聞いた厚労省内の問題を筆者が記者に話し、記事になったことがある。

 だが、彼は、筆者に対して「局内では誰がリークしたのかの犯人捜しが始まっております。課長も憤慨しています。メールの履歴をチェックされて私が処分されそうですが、それはその時考えます」とメールで記したように、全く責めることなく、淡々と業務をこなしたのである。これが、筆者が知る大久保氏の姿だ。読者の皆さんが報道から受ける印象とは違うだろう。

 筆者は今回の嘱託殺人の詳細を知らない。メディアは、大久保氏が「やっぱりドクターキリコになりたい」と投稿するなど、「ドクター・キリコ」についてツイッターで何度も言及していたことを取り上げ、彼の変質的な側面を強調している。ドクター・キリコとは、手塚治虫の人気漫画『ブラック・ジャック』の登場人物で、高額報酬で患者の安楽死を請け負う医師のことだ。果たして、そのような動機だけで動いたのだろうか。筆者が知る大久保氏なら、相当な覚悟を持って、この件に臨んだことは想像に難くない。それほどALS患者の安楽死は重大な問題だからだ。
京都府警中京署から大久保愉一容疑者を送検する捜査車両=2020年7月24日、京都市中京区
京都府警中京署から大久保愉一容疑者を送検する捜査車両=2020年7月24日、京都市中京区
 ALSという難病を抱え、死を望む患者にわれわれはどう接するべきか、当事者に寄り添い真剣に考えねばならない。ところが、日本はこの問題を避けてきた。今回の事件が起こっても、真剣に取り組もうとしていない。就任したばかりの日本医師会の中川俊男会長も「嘱託殺人、安楽死議論の契機にすべきではない」と発言する始末だ。

 今こそ日本が安楽死とどう向き合うかを、社会で議論すべきである。本稿では、世界における安楽死の現状を紹介したい。

 近年、安楽死の議論は急展開を遂げている。今年2月には、ドイツの連邦憲法裁判所が医師による自殺幇助(ほうじょ)、つまり安楽死を禁じる法律を違憲とする判断を下した。医師、患者、支援者らが、安楽死の禁止は患者の自己決定権を侵害していると訴え、長年の議論の末に認められた。

 このような動きはドイツに限った話ではない。最近になって、ポルトガルやスペインでも安楽死の法制化に関する議論が進み始めた。注目すべきは、いずれもカトリックが強い国であることだ。

 終末期医療の在り方は宗教と密接に関係する。以前から安楽死を認めてきたのは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国やスイス、米国のオレゴン州などだ。プロテスタントが強い国や地域が目立つことからも、世界の安楽死問題が大きく変わり始めていることが分かる。