外山文子(筑波大人文社会系准教授)

 先月、タイ王国における民主主義の象徴、民主記念塔周辺に多数の高校生と大学生が集結した。彼らは日本の人気アニメ『とっとこハム太郎』に登場するキャラクターのぬいぐるみを持ち、ハム太郎の替え歌を歌いながら、プラユット首相の現政権に対する抗議を開始して国内外から多くの注目を集めた。

 彼らは主題歌「ハム太郎とっとこうた」のメロディーに乗せて、「大すきなのは ヒマワリのタネ」という歌詞を「大すきなのは 納税者のお金」と置き換えて政権を批判した。

 なぜ、タイの学生たちは政府に抗議するにあたり、ハム太郎の歌を使ったのだろうか。また彼らの運動の背景には何があり、どのような意味を持つのか。そして、こうした運動が今後のタイ政治に対してどのような影響を与えうるのか。本稿ではそういった側面から、今回のタイにおける政治運動について考えたい。

 まず、この混乱の背景として、06年にタクシン政権が軍のクーデターによって打倒されたことに始まる。もともと、そのクーデターの前後において、地方農民や低所得者の住民はタクシン首相に対する支持が集まり、上流階層や公務員層などの都市部の住民はタクシン氏に反発する構図が生まれていた。

 その反タクシン派から支持を受ける「黄シャツ」陣営と、一般的にタクシン派とみられる「赤シャツ」陣営に分かれた大規模な大衆デモが、首都バンコクを中心にタイ全土で繰り返されていた。こうして、14年5月に軍が再びクーデターを起こすまで、国を真っ二つにしたある種の内戦状態となった。

 そのクーデター後に登場したプラユット氏が率いる軍事政権は、大衆デモを封じるために非常に厳しい言論統制を実施し、19年3月の民政復帰に向けた総選挙までの約5年間統治を続けた。ただ、その総選挙でも、親軍の「国民国家の力党」と官選の上院の支持により、プラユット氏が続投することになった。そのため現在も、実質的には軍事政権と言った方が適切かもしれない。

 今年2月には反軍政を掲げ、若い学生から多くの支持を集めていた「新未来党」が憲法裁判所により解党された。そのため学生たちの間からプラユット政権に対する不満の声が上がり、各地の大学構内などで抗議集会が開かれるようになった。ただ、3月以降は新型コロナウイルスの感染防止策もあり、いったん反政府運動は沈静化していた。

 しかし、新型コロナの影響で多くの国民が経済的に深刻なダメージを受ける中、プラユット政権は効果的な救済策を打ち出すことができず、経済的理由から自殺者さえ出るようになった。他方、政府は米国からの武器購入計画を実行しようとしたり、閣僚の不祥事が表面化するなど、国民の間に政権に対する怒りと不満が日増しに大きくなりつつあった。
 
 タイでの過去の例に照らし合わせれば、今回も多数の国民による反政府デモが起こるはずであった。しかし、14年のクーデター以降、従来のような広がりと継続性を持った大規模なデモは行われなかった。最大の理由としては、プラユット政権による厳しい言論統制がある。

 ただ、実際のところ、06年以降に起きた「赤」と「黄」のシャツにより、国家が二分された大規模デモによる混乱の再来を嫌う人々も、エリート層を中心に数多く存在する。これが大きな反政府デモにつながらない理由の一つでもある。
集会で気勢を上げる、タクシン派で「赤シャツ」と呼ばれる反独裁民主統一戦線(UDD)のメンバーら=2011年5月19日、バンコク市内
集会で気勢を上げる、タクシン派で「赤シャツ」と呼ばれる反独裁民主統一戦線(UDD)のメンバーら=2011年5月19日、バンコク市内
 ゆえに多くのタイ国民はプラユット政権に対して不満を持ちつつも、先の苦い記憶から反政府運動を展開できずにいた。こうした状況下で登場したのが、学生たちによる「ハム太郎デモ」であった。

 ハム太郎デモの特徴は、参加者の多くが高校生と大学生である点である。06年以降の大規模デモには高齢者や活動家、非政府組織(NGO)、そして政治家が多数参加していた。そのため、たとえ「赤シャツ」陣営が民主主義の復権をうたっても、そのデモが持つ「政治性」を警戒する国民が少なからず存在した。