早坂隆(ノンフィクション作家)
令和2年は戦後75年という一つの重要な節目である。私はこれまで約20年にわたって昭和史に関する取材を続けてきたが、「日本の軍人の中で今、最も語り継ぐべき人物は?」と聞かれたら、樋口季一郎の名前を挙げたい。
旧陸軍中将、樋口季一郎の存在を知る人は近年、増加しつつある。樋口の功績を知れば、「こんな人がいたのか」と驚くのは当然のことだろう。令和2年が「没後50年」にあたることもあり、その再評価は着実に進んでいる。
しかし、一般的に言えば、まだまだ知名度は決して高くない。樋口は戦後社会の中で「埋もれた存在」とされてきたのである。
昨今、杉原千畝(ちうね)の名前は、かなり知られるようになった。1940(昭和15)年、リトアニア駐在の外交官だった杉原は、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に対して日本通過ビザを発給。約6千人もの命を救ったとされる。戦後、杉原の功績は「命のビザ」として知られるようになり、近年では映画化もされた。
実は「日本人によるユダヤ人救出劇」はもう一つ存在した。その中心的な役割を果たしたのが、樋口である。
樋口は1888(明治21)年、兵庫県の淡路島で生まれた。陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業した樋口は、対ロシアを専門とする情報将校として、極東ロシアやポーランドに駐在。「インテリジェンス」の最前線で情報収集などに尽力した。

=1937年(樋口隆一氏提供)
1937(昭和12)年には満州のハルビン特務機関長に就任。「ソ満国境のオトポールという地に、多数のユダヤ難民が姿を現した」という知らせが樋口のもとに届けられたのは、38(同13)年3月のことであった。
満州国はユダヤ難民へのビザの発給を拒否していた。当時の日本はドイツと親密な関係にあったが、満州国外交部は日独の友好に悪影響を及ぼすことを不安視したのである。その結果、ユダヤ難民たちは酷寒の地での立ち往生を余儀なくされていた。