渡邊大門(歴史学者)


 新型コロナウイルスの猛威が止まらない。以前から、私の今夏の講演会は全滅したとお伝えしていたが、実は秋以降もかなりヤバい。中止になった分を秋以降に振り替えるケースもあるが、東京都内でのコロナ感染者の増加を受けて、「やっぱり止めます!」というところも増えてきた。だんだん開催するのか開催しないのか、わけが分からなくなっている状況である。

 前回も少々触れたが、講演と言えば、参加者からの質問である。困った質問もあるが、中には核心をつくような鋭い質問もある。「ムムッ!」と怯(ひる)むときがあるが、結論を言えば「今残っている史料だけでは、分かりません」と答えざるを得ないこともままある。諦める方もいれば、「何や知らんのか!」と悪態をつかれることも…。

 しかし、歴史研究(いや、ほかの学問分野でも!)においては、分からないことが多すぎるのが実情だ。極端に言えば、分かっていることの方が少ないのかもしれない。たとえば、そこそこ名の知れた戦国武将であっても、生没年や前半生が不明な人も少なくない。ましてや、合戦の具体的な中身は余計に分からない。

 そこで今回は、織田信長が今川義元を打ち破った桶狭間の戦いの具体例を挙げて、考えてみることにしよう。問題になっているのは、信長が仕掛けたのは奇襲攻撃(「迂回奇襲説」)か正面攻撃(「正面攻撃説」)かということである。

 永禄2(1559)年、尾張国内をほぼ統一した信長は、いまだ今川氏方の勢力下にあった鳴海城(名古屋市緑区)、大高城(同上)の奪還を目論んだ。信長は鳴海城に丹下・善照寺・中島の三砦、大高城に鷲津・丸根の2つの砦を付城として築き、今川氏に対して積極的な軍事行動を展開する。

 信長の動きに対して、翌永禄3年5月12日、今川義元は信長を討つべく駿府(静岡市葵区)を発った。そして、義元は三河を通過して、同月18日に尾張沓掛城(愛知県豊明市)に入ったのである。なお、義元が出陣した理由については、上洛を目指したとの説もあるが、明らかにするのは難しい。

 今川氏が率いた軍勢は、『信長公記』では4万5千人と書かれている。しかし、そのほかの二次史料では2万~6万人と書かれており、大きな幅がある。正確な数は分からないが、この場合は良質な『信長公記』の数をとるべきだろう。とはいえ、それでも今川軍は多すぎるのではないだろうか。

 慶長期の段階で、今川領国の駿河・遠江の石高は約40万石である。これを基準にして、100石に3人の軍役ならば1万2千人になる。100石に4人の軍役ならば1万6千人、100石に5人の軍役ならば2万である。つまり、『信長公記』に書かれた4万5千人という数字は、通常の約3・7倍から約2・2倍になる。常識外れだ。

 むろん、『信長公記』を書いた太田牛一が数えたわけではないだろうから、少数で大軍を破ったことを誇張して書いたか、感覚的にそう書いたのかのどちらかだろう。ただ非常に考えにくいが、今川方が総力戦で臨んだとするならば、4万5千人というのもありえたかもしれない。
桶狭間古戦場公園にある信長と義元の銅像=名古屋市緑区
桶狭間古戦場公園にある信長と義元の銅像=名古屋市緑区
 義元が沓掛城に到着した日、松平元康(のちの徳川家康)に命じて、大高城に兵糧を搬入させた。大高城は信長軍によって、長期にわたって兵糧の補給路を断たれていたからである。翌5月19日、義元は配下の武将に命じて、鷲津・丸根両砦を攻撃させた。そして、桶狭間まで進み、今川氏は本陣を置いた。桶狭間は、名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる広範な地域である。