次に、信長の動きを『信長公記』で確認しておこう。5月18日夜、信長は今川軍が翌朝に織田方の付城を攻撃する予定であるとの報告を家臣から受けた。しかし、信長はまったく意に介する様子もなく、家臣と今川軍への対抗策について協議しようとはしなかった。逆に信長は、終始雑談に興じていたと伝わっている。

 5月19日の明け方、鷲津・丸根両砦が今川軍に攻撃されているとの一報が信長にもたらされた。すると、信長はにわかに幸若舞の「敦盛」を舞うと、その直後に騎馬6騎・雑兵200人を率いて出陣した。やがて、信長は鳴海城の付城・善照寺砦に入ると、後続の軍勢約2千~3千人がやって来るのを待ったという。

 その一方で、信長家臣の佐々隼人正、千秋四郎が率いる300余の軍勢は、今川軍へ攻撃を仕掛けた。しかし、佐々らの軍勢は奮戦虚しく敗北を喫し、佐々、千秋らを含めて50騎ほどが討ち死にする。戦況は、信長にとって不利に傾いていた。

 ここから、信長は一計を案じ、今川軍への奇襲攻撃を敢行する。以下、小瀬甫庵の『信長記』(以下、太田牛一の『信長公記』と区別するため、『甫庵信長記』で表記を統一)により、奇襲攻撃の経過を確認しておこう。

 善照寺砦を出た信長は、今川義元の本隊が窪地になっている桶狭間で休息をとっていることを知った。信長は前田利家が敵の首を持参したので、これは幸先がよいと大いに喜んだ。利家は信長から出仕の停止を受けていたが、独断で行動していたようだ。

 そして、信長は味方の軍勢に敵、つまり今川氏本陣の後ろの山に移動するよう命令した。この移動が奇襲戦の端緒になった。さらに、信長は山の近くまでは旗を巻いて忍び寄り、義元がいる今川本陣に攻撃するよう命じたのである。旗を巻いたというのは、目立たないようにするためだ。
桶狭間古戦場内にある今川義元の墓=愛知県豊明市
桶狭間古戦場内にある今川義元の墓=愛知県豊明市
 信長が密かに軍事行動を起こした頃、急に大雨が降りだし、その後は霧が深くなっていたという。義元の方も、このような悪天候の日にまさか信長軍が攻めて来ないだろうと油断していた。信長の作戦は、天候も運も作用した。そうした状況をも信長は味方にし、今川氏の本陣を密かに迂回。気付かれぬように背後の高台から奇襲攻撃を仕掛け、今川軍が大混乱に陥るなか、義元の首を獲ったのである。

 以上の流れが通説となった「迂回奇襲説」である。

 「迂回奇襲説」が通説となり、長らく信じられてきたのには、もちろん理由がある。近世になると、『甫庵信長記』は太田牛一の『信長公記』よりも広く知られるようになり、強い影響力を持つようになったからだ。

 日本陸軍参謀本部が明治32(1899)年に『日本戦史・桶狭間役』を編纂すると、『甫庵信長記』の説を採用した。結果、日本陸軍参謀本部が信長の奇襲攻撃にお墨付きを与えたことになり、権威を持って世間に広く受け入れられたのである。では、『甫庵信長記』はどういう書物なのか。