『甫庵信長記』は元和8(1622)年に成立したといわれてきたが、今では慶長16・17(1611・12)年説が有力である。江戸時代に広く読まれたが、創作なども含まれ儒教の影響も強い。

 そもそも『甫庵信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、内容は小説さながらの面白さで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。しかし、現在では、歴史史料として適さないと評価されている。

 「迂回奇襲説」は通説となったが、果敢に批判を試みたのが歴史研究者の藤本正行氏である。藤本氏は『甫庵信長記』と『信長公記』の記述内容を比較検討し、両者の記述に食い違いがあることを問題とした。詳細に分析した藤本氏は、『信長公記』を根拠にした「正面攻撃説」を提唱したのである。

 改めて『信長公記』の記述内容により、戦闘の経過と「正面攻撃説」を検証しよう。

 信長は佐々らの敗北を知った後、家臣の制止を振り切って出陣した。そして、信長率いる軍勢は、中島砦へ向け進軍していた今川軍の前軍へ正面から軍を進めたのである。前軍は先陣、先鋒、先手ともいい、前方の軍隊や先頭に立つ軍隊のことを意味する。信長軍が山の裾野まで来ると大雨が降ったものの、信長は雨が止むと即座に今川軍への攻撃命令を下した。

 信長軍が怒涛の勢いで攻め込んできたので、今川軍の前軍は総崩れになった。信長はそのまま勢いに乗じて今川軍の前軍を押し込めると、義元の本陣までどっと雪崩れ込んだのである。信長軍の攻撃を受けた義元は、約300騎の将兵に守られつつ本陣を退いた。その後も今川軍は信長軍と交戦したが、将兵は次々と討ちとられ、ついに義元は毛利新介(良勝)に首を獲られたのである。

 「正面攻撃説」の根拠となった『信長公記』は、信長の家臣で執筆者の太田牛一が、日頃からメモを残しており、慶長8年頃には『信長公記』を完成させたという。牛一の執筆態度は、事実に即して書いていると指摘されており、一次史料と照合しても正確な点が多い。そうした理由から『信長公記』は二次史料とはいえ、信長研究で必要不可欠な史料であり、おおむね記事の内容は信頼できると高く評価されている。

 現時点において、「正面攻撃説」は信憑性の高い『信長公記』に書かれているので、史料的な質が劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」より有力な説となっている。とはいえ、『信長公記』は二次史料であることを忘れてはならず、一つの有力な説にすぎないと考えるべきだろう。

 その後、桶狭間の戦いについては、なぜ少数の信長軍が、大軍の今川氏を打ち破ることができたのかについて、種々新説が提起された。たとえば、信長軍の将兵はよく訓練された少数精鋭だったので、今川氏の大軍を打ち破ることができたという説もその一つだ。この説は正しいのだろうか?
「竹千代君像」(左)と並んで設置されている今川義元の銅像=JR静岡駅前
「竹千代君像」(左)と並んで設置されている今川義元の銅像=JR静岡駅前
 信長配下の兵卒は、兵農分離を遂げた職業軍人だったとの説がある。信長が兵農分離を行ったという根拠は、『信長公記』天正6(1578)年1月29日条の記事である。信長は天正4年から安土城(滋賀県近江八幡市)築城を開始し、3年後の天正7年に完成させると、徐々に配下の者を城下に住まわせていた。信長が近世の先駆けといわれるゆえんである。ところが、天正6年1月、安土城下に住む弓衆の福田与一の家が失火した。