与一は一人で居宅に住んでおり、そのことを信長が問題視した。家族がいれば、火事の被害を抑えることができたと考えたのだろう。調べると、120人もの馬廻衆・弓衆は、尾張に家族を残しており、今でいう「単身赴任」であることが発覚した。怒った信長は、尾張支配を任せていた長男の信忠に命じ、彼らの尾張国内の家を焼き払った。こうして家を失った廻衆・弓衆の家族は、安土城下に住むことを余儀なくされたのである。

 この事例から明らかなように、信長は馬廻衆・弓衆を城下に集住させ、兵農分離策をすでに行ったと指摘されている。近世に入ると、城下町に武士を住まわせ、身分に応じて居住区を定めたのは周知のことだろう。その先駆を成し遂げたのが、信長であると指摘され、その兆候は安土城に移る以前から確認できるという。

 考古学の発掘調査によると、信長が永禄6(1563)年から4年間にわたり居城とした小牧山城(愛知県小牧市)には、武家屋敷の跡が残っているとの指摘がある。また、永禄10年から使用した稲葉山城(岐阜城、岐阜市)のふもとには信長の居館があったが、その周辺には重臣らの館があったという。つまり、信長は城下に兵を集住させるという、兵農分離を早い段階から実行していたということになろう。

 もう少しほかの例を確認しておこう。

 信長の配下の兼松氏は、天正4年に近江国に所領を与えられた(「兼松文書」)。兼松氏は尾張国葉栗郡島村(愛知県一宮市)を本拠とする武将で、もとの所領は尾張国内にあった。本来、武士と土地とが分離不可分な関係だったことを考慮すると、これも武士の安土城下への集住つまり兵農分離策の第一歩と認識されている。信長は兼松氏を安土城下に強制移住させる代償として、近江国内に所領を与えた。

 信長は槍や鉄砲などを効果的に用いた作戦を行ったので、兵農分離を遂げた配下の将兵は軍事的な専門訓練を受けたと考えられてきた。特に、鉄砲のような新兵器は、専門的な軍事教練なしにして、実戦で用いるのは困難であると考えたのだろう。

 一方で、ここまでの事例だけでは、信長により兵農分離が実施されたとは言い難いという、慎重な意見がある。当時、戦国大名の直臣(馬廻衆など)が城下町に住むことは、決して珍しいことではなかった。したがって、政策的に家臣を城下町に住まわせた兵農分離と、信長の事例を同列に考えてはいけないという指摘がある。つまり、兼松氏の場合は、兵農分離に該当するか否か検討が必要である。

 戦国最強と言われる信長の軍隊は、兵農分離を成し遂げた専門的軍事集団だったとのイメージがあるが、現存する史料だけでは必ずしもそうとは言えないようだ。いまだに十分な分析が必要であることを述べておきたい。したがって、「信長軍の将兵はよく訓練された少数精鋭だった」ということは証明できない。
清洲公園にある織田信長公像=愛知県清須市
清洲公園にある織田信長公像=愛知県清須市
 ほかにも信長勝利を収めた理由を挙げている研究者がいるが、もはや確かめようがない。それらの新説は、おおむね信頼度の低い二次史料に基づく憶測や想像のようなもので、納得できるものではない。一方で、それらの説がたとえ常識はずれなデタラメであっても、一般の人は面白ければ受け入れるという嘆かわしい現状がある。

 あれこれ諸説を披露しても、結論として「分からないことは分からない」と正直に言うのが誠実な歴史家の姿である。分からないことを分かろうとするのは無理なのだ。しかし、現状ではマスコミ受けを狙ったり、人気者になるために平気で嘘やデマを垂れ流す面々もいるので、注意が必要である。

【主要参考文献】藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫)