2020年08月29日 19:14 公開

ジョン・ニルソン=ライト博士、ケンブリッジ大学および英王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)

歴史を修正するナショナリストか、それとも実践的な現実主義者か。戦後日本で最も長く総理大臣を務めた安倍晋三氏が残すもの、辞任後のその「レガシー」について、日本内外で専門家の評価が分かれている。

批判する人たちにとって安倍氏とは、第2次世界大戦中の日本の行動をともかくそれほど深刻なものではなかったことにしたい高齢保守層の態度を象徴しつつ、トラブルの要素をはらんだ過剰に強気の外交を展開しようとする存在だった。

一方で支持者にとって安倍氏は、世界における日本の地位を向上させた総理大臣だった。国として当然の正当な意欲と、世界3位の経済大国としての影響力を上手に調和させ、国益を実現しようとした人ということになる。

実際には、この両方の「安倍晋三」像はどちらも正確だ。

国内外で日本の誇りを取り戻そうとする、本能的に保守派な政治家として、安倍氏は約8年の在任期間中、一貫して日本の国としてのアイデンティティと歴史的伝統の強化に取り組んできた。

たとえば、日本の市民生活における天皇の地位をあらためて追認した(新しい『令和』の時代を先導し、とりわけ2019年4月の明仁天皇退位と新天皇即位の手はずを整えた)。高校の教科書に掲載されていた、過度に自己批判的な歴史記述を削除し、戦後の憲法改正を模索した(最終的には頓挫したが)。

このナショナリスト的アジェンダ(政策目標)は主に国内的なものだった。

対照的に外交では(安全保障政策であれ経済政策であれ)、典型的なプラグマティスト(実践主義者、実用主義者)を貫いた。

既存の同盟関係(特にアメリカとの同盟関係)を強化した。相手が民主国家だろうが独裁国家だろうが、相手のイデオロギーを問わず、地域や世界のアクター(行為主体)と新しいパートナーシップを構築した。

安倍氏の首相としての功績は、多くの政治家と同じように、幸運と、選挙における抜け目のない計算とタイミングがもたらしたものだ。

国政選挙で6連勝(2012から衆院選で3回、参院選で3回)した背景には、まず日本で野党が弱くばらばらなことがある。加えて安倍氏は、イデオロギーにこだわらない有権者、対外冒険主義よりも国内の安定を重視する有権者に経済繁栄をもたらそうととことん注力した。それも選挙連勝の要因だった。

安倍氏の成功は、戦後の日本政治で典型的な合意型政治からいきなり脱却するより、むしろ段階的で漸進的な改革によって実現した(ある程度改革派だった2000年代の小泉純一郎氏や1980年代の中曽根康弘氏も、同様だった)。

安全保障政策では多数の重要分野で、この綿密で漸進主義的アプローチが成果を生んだ。

その中には、2013年の国家安全保障会議(NSC)創設や、2014年の特定秘密保護法の成立と自衛隊の限定的な集団的自衛権の行使の容認、毎年の防衛費増額(安倍政権下で13%増加した)、F-35ステルス戦闘機やヘリコプターが搭載可能な海上自衛隊のいずも型護衛艦など、日本の戦力投射能力を向上できる軍事機材の獲得――などが含まれる。

つい最近では、河野太郎外相がアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの5カ国の機密情報ネットワーク「ファイブ・アイズ」に日本が参加する可能性を意欲的に語っている。これは、安倍氏の「積極的平和の追求」というアプローチが、日本の外交政策におけるニューノーマル(新常態)になっていることの表れだ。

ドナルド・トランプ米大統領と親密な関係を維持し、何事にも交換条件を要求する大統領のいじめ戦術を、外交を通じて一部でも相殺できた。これも成功として、評価されるべきだ。

アメリカの多くの同盟国と同様に、日本も防衛費の増額や米軍駐留経費の支援を求める圧力にさらされている。これには、変わりがない。しかし、圧力は受けていても、安倍氏は国を弱体化させる貿易戦争を回避した。同盟関係の基盤は強固なままだ。

さらに外交政策全般を見渡せば、安倍氏は日本外交を大胆に革新者したし、戦略的な思考能力の持ち主であることを実証してきた。外で起きることに受身だったり、米政府の主導におとなしく従うのがほとんどだった、過去の総理大臣とは、そこがはっきり違っていた。

安倍首相のもとでのこうした変化は、インドやオーストラリアとの新たな戦略的パートナーシップや東南アジア諸国との防衛協定、イギリスやフランスとの野心的な二国間の外交・防衛パートナーシップ、さらには太平洋とインド洋にまたがる様々な国との経済や安全保障政策の調和を目的とした、新たなインド太平洋構想の明確化などに反映されている。

安倍氏による外交政策の刷新と同様、大胆な多国間や二国間の通商協定も多数実現した。そのために首相は、農業関係者をはじめとする重要な国内支持基盤と対峙(たいじ)しなくてはならなかった。

環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11)の強化で決定的役割を果たし、2019年には欧州連合(EU)との画期的な貿易協定を確保した。2018年には中国と多数の金融・開発協定を交渉した。

安倍氏は、中国がもたらす戦略地政学的な脅威を強く認識している。これは賢明なことだ。それでも地政学的な脅威があるからといって、習近平国家主席とのプラグマティック(実践的、実用的)な協力機会が阻害されるようなことは許されなかった。

プラグマティズム(実践主義、実用主義)は、安倍氏の目玉政策だった「アベノミクス」の裏付けでもあった。アベノミクスとは、金融、財政、投資喚起や社会保障などの構造改革という「3本の矢」を打ち出した、国内経済対策だ。

しかしここでの成功は、実体を伴ったというよりは見た目優先だった。これは、政策の実行と同じくらい、メッセージ発信を重視した安倍政権の方針に合致している。

企業や消費者心理の変化という問題を反映して、日本の今年の4~6月期における実質国内総生産(GDP)は485兆円(年率換算)。2012年末の第2次安倍政権から間もない2013年1~3月期の504兆円から減少している。

様々な成果を実現してきたものの、安倍氏の国内支持率は昨年から低下していた。消費税率を8%から10%に引き上げたことや、政権で相次ぐ汚職疑惑などの不祥事、女性活躍推進を打ち出した「ウーマノミクス」の中途半端な実現、さらには何より、新型コロナウイルス対策が、支持率低下を引き起こした。新型ウイルスの影響で2020年の東京五輪が延期されたことも、国民をがっかりさせた。

首相と内閣の支持率が、2012年以来最低水準の30%台半ばで推移するようになったことからしても、持病が再発した安倍氏が辞任を選んだことは、決して意外ではない。

特に「悲願」と呼んでいた改憲や、ロシアとの北方領土問題の解決など、自分が重視していたいくつかの政策課題を、実現できないままの辞任は、本人にとっても無念に違いない。

「ポスト安倍」については、短期的にはそれなりの安定が続くはずだ。衆参両院で安定多数を確保し、2021年秋まで総選挙を実施する義務のない現状では、自由民主党の権力基盤は磐石だからだ。

ただし、安倍氏の後継争いはすでに始まっている。かねて安倍氏と党内でライバル関係にある石破茂元防衛相は、早くも総裁選出馬に意欲を示している。

国民の間で石破氏の人気は高く、経済格差の是正を呼びかけるその政策方針も、世間の幅広い支持を得やすいはずだ。

しかし、次の首相になる総裁を選ぶのは、自民党員だ(おそらく国会議員と地方代表を含む)。党員の選択はおそらく、様々な要素に影響される。

たとえば、つなぎ候補として(特に反対される要素がないとみられる)岸田文雄元外相や、党内実力者の菅義偉官房長官を選んでおくのも、効果的かもしれない。

順当な選択肢のほかには、(派閥の党内影響力が弱い)河野太郎防衛相や、有権者人気は今も高いが39歳という若さが不利かもしれない小泉進次郎環境相などが、ワイルドカードになり得る。

日本が直面する経済や安全保障の課題について、安倍氏は本当に具体的な成果を残した。それだけに、どの候補もその点については安倍氏の貢献を認め、活用しようとするだろう。辞意を発表した安倍首相の成功は、緩やかに拡大する実践的なものだった。これは自民党の政治的伝統と合致していたし、今後の指導者にとっても、最も安全で政治的に問題の少ない基盤となる。新首相はいずれ迎える総選挙に先駆けて、イデオロギーに縛られずに政党や候補者を吟味(ぎんみ)する日本の有権者を前に、その信頼を再構築して増強ししていかなくてはならないのだから。

安倍氏はナショナリスト的な野心を抱きはしたが、実際にはその一部しか実現できなかった。それよりもむしろ、安倍氏が残した現実的でプラグマティックな成果こそ、今後最も長続きするレガシーとなるのだろう。

(英語記事 Defining Shinzo Abe and his legacy