武田薫(スポーツライター)

 新型コロナ禍によって、すべてのスポーツが一時息を止めた。この夏に開かれるはずだった東京五輪・パラリンピックでさえ、1年の延期を余儀なくされ、来年の開催もおぼつかない。どの競技も、この空白から何とか抜け出そうと必死に努力している。

 テニスのプロツアーは、男女とも3月から大会を封鎖してきた。グランドスラム4大会も、1月の全豪オープンは辛うじて開催したが、伝統のウィンブルドン選手権は中止、全仏オープンは5月から9月末に延期となった。

 全米オープンも、その開催地であるニューヨークがパンデミック(世界的大流行)に陥ったため難しいとみられていたが、予定通りに8月31日、どうにか開幕にこぎつけた。大坂なおみ(日清食品)が快進撃を続けており、このまま無事に終わってほしい。しかし、昨年男子の覇者、ラファエル・ナダル(スペイン)や女子のビアンカ・アンドレスク(カナダ)をはじめ、ヨーロッパ勢を中心に欠場者が続出している。特に女子はシモナ・ハレプ(ルーマニア)を筆頭に、世界ランクトップ10のうち、6選手が渡米を見合わせる事態になった。

 テニス・ツアーの最大の特徴は世界ツアーにある。世界的に新型コロナウイルスの感染が収まらない中、今回の全米オープンを主催する全米テニス協会(USTA)は慎重に対策を練った。

 会場はニューヨークのマンハッタンとイーストリバーの対岸にあり、主要空港のJFK空港とは地続きだ。空港近くに専用ホテルを用意し、会場と宿舎を包んだ「バブル(泡)」内に選手を閉じ込めて外部との接触を遮断する形式をとった。無観客で、選手随行者数を3人に制限し、現場の取材記者は通信社と地元紙の11人、写真は3社のみ、会見はすべてリモートだ。

 そこまでして大会を実施したのは、中止がもたらす莫大(ばくだい)な損失だ。中止すれば損失は2億8千万ドルとも言われ、開催すれば地元テレビ局からの放映権料1億8千万ドルが入る。そして何よりも、「とにかく始めよう」というテニス界全体の意思が開催を後押しした。女子ツアーの年間賞金総額だけで1億3900万ドル(2018年実績)というビッグマーケットを、漫然と閉じておくわけにもいかなかった。

 それでも失敗は許されない。USTAは予行演習を兼ね、本来はシンシナティーで行われるウエスタン&サザン・オープン(W&Sオープン)を全米会場に移動した。これは男子では4大大会に次ぐ格のマスターズ、女子も東レ・パン・パシフィックオープン・テニス(PPO)と同じプレミア5というハイレベルの大会だ。

 本大会(W&Sオープン)において錦織圭(日清食品)は、直前のPCR検査で陽性となって欠場したが、大坂は攻撃的なプレーで準決勝まで勝ち進んだ。よい感じで大会が進行していた矢先、大きな問題が発生した。

 勝ち残った最大のスター、大坂が準決勝を棄権すると会員制交流サイト(SNS)で突如発信したのだ。なぜ彼女は棄権すると発表したのか。その背景には、昨今米国で深刻化している黒人差別問題がある。
6月3日、米東部ニューヨーク市で行われた黒人男性死亡事件の抗議デモ。元警官全員が訴追されても各地でデモが続いている(上塚真由撮影)
6月3日、米東部ニューヨーク市で行われた黒人男性死亡事件の抗議デモ。元警官全員が訴追されても各地でデモが続いている(上塚真由撮影)
 この問題の発端となった、ミネソタ州ミネアポリスで白人警察官の暴行によってジョージ・フロイド氏が死亡したのが、コロナ禍の真っただ中の5月20日。

 その後「Black Lives Matter(BLM=黒人の命は大切だ)」と、黒人差別撤廃を訴える抗議行動が全米で展開され、大坂もボーイフレンドの黒人ラッパーと共にミネアポリスの抗議集会に参加し、SNSを通じて日本のファンへ理解を求めていた。