将棋では、「本当の中盤は数手だけ」ということも多々ある。最近では「91手定跡」と言って、初手から91手目までが定跡化されている変化がある。つまり91手目の段階で、先手と後手のどちらが優勢か、その時点で何が最善手かを、プロ棋士が実戦で試行錯誤してようやく結論が出た、ということもあった。

 この場合、92手目に何通りかの可能性があり、それに対応する93手目にも何通りかの可能性がある。という風に、中盤は92手目からの変化数手だけである。一つの局面に3通りの変化があるとして96手目まで読むとしたら、単純計算で3の5乗の243手を読む計算になる。精査するのはその243手の変化だけだが、なぜそこが勝負所なのかを判断するには、その何十倍も変化を検討しなければならない。その勝負所を「中盤」と呼んでも差し支えない。

 木村無敵時代、「中盤を制する者は将棋を制する」と言われた。木村は戦いとは何かを実力と風格で示したので、今でも尊敬されている。木村が第一期実力制名人に就いて以降、八段以上の実力者による総当たりリーグ戦によって決まる挑戦者と、年に1度の名人戦を戦い、勝者が名人となる。名人戦を5期勝利したら、永世名人の称号を得る。木村は圧倒的な強さで十四世名人の称号を得た。

 その牙城を2年だけ崩したのが、花田の弟子の塚田正夫だった。塚田は圧倒的な終盤力で木村を攻め崩した。相撲の横綱のごとく木村も引退するかと思われたが、2年で名人に復帰した。どの世界でも、一度奪われた地位を取り返すのには、倍のエネルギーがいるとされる。木村は史上初の「名人返り咲き」を成し遂げた。

 その木村時代を終わらせたのが、大山康晴である。昭和28年の名人戦最終局で木村は「これまで」と負けを認め、対局後に「よき後継者を得た」と引退を表明する。関西将棋界の悲願で坂田が死ぬまで果たせなかった「名人位の箱根越え」を、大山が果たした。

 大山の宿敵は、兄弟子の升田幸三だった。当初、升田が受け将棋、大山が攻め将棋だった。だが、升田は大山の攻めを受けかねて攻め将棋に転じ、大山は升田の受けを攻め潰せず、受け将棋に転じる。人気があったのは、常に升田だった。「新手一生」を掲げ、ファンに魅せる将棋を心がけた。将棋の定跡を次々と塗り替える升田の序盤は、ずば抜けていた。現在も「升田幸三賞」に名を残す。ただ、酒とタバコを手放せず、健康に恵まれなかった。だからその絶頂期は短かったが、記憶に残るのが升田だ。

 その後、新聞各社がスポンサーとなり、名人以外のタイトル戦も次々と生まれていく。特に意表を突いたのが王将戦で、3連敗か1勝4敗に追い込まれた側は「香落ち」(ハンディキャップ戦)に追い込まれる。この制度を、「もし名人が負けたら権威が失墜するはずがない」と反対したのが升田で、「名人(つまり自分)が負けるはずがない」と強行したのが木村だった。そして皮肉にも、升田は木村を香落ちに追い込む。その香落ち戦を、「対局場である旅館のベルを押しても誰も出てこなかった」との理由で升田は拒否する(陣屋事件)。

 升田は名人5期で十五世名人の資格を獲得した大山も香落ちに追い込み、勝利した。升田は少年の頃、「名人に香車を引いて勝つ日本一の棋士になる」と宣言して家出し、将棋の道を歩んだのだが、見事に実現した。今は王将戦で制度が廃止されているので、現役名人に香落ちで勝ったのは升田が空前絶後となる。

 升田の絶頂期は2年で終わった。大山から王将、名人を奪ったのに加え、塚田から九段(後に十段、現在は竜王)も奪取、史上初の三冠王となった。この頃、升田は大山を苦手、大山は塚田を苦手、塚田は升田を苦手とする、三すくみだった。そこを抜け出して時代を築いたのが大山である。
第6期棋聖戦五番勝負の第5局に臨む大山康晴(左)と升田幸三=1965年7月、東京・将棋会館
第6期棋聖戦五番勝負の第5局に臨む大山康晴(左)と升田幸三=1965年7月、東京・将棋会館
 大山は升田に負け続けた2年間、挑み続けた。苦手の塚田を克服し、升田からすべてのタイトルを奪い返す。そして王位、棋聖と新設されるタイトルも奪い、四冠王、五冠王となる。名人に返り咲いてから13年間、あらゆる若手の挑戦を潰し続けた。特に「神武以来の天才」と称された加藤一二三(ひふみ)が20歳で名人に挑戦してきたときは4勝1敗で退ける。その最終戦は、加藤に勝ち目がない局面で、一生消えない劣等感を植え付けようとしているがごとく、なぶり続けた。大山はタイトルを奪われても、翌年には奪い返す。