大山の絶頂期、政治の世界では佐藤栄作が7年8カ月と最近まで破られなかった最長不倒政権を樹立、野球では巨人がV9を達成する。

 大山将棋の特徴は、徹底した受け将棋だ。相手に好きなだけ攻めさせる。しかし、紙一重で届かず、相手は「攻めさせられている」ような感覚に陥る。実際、大山の受けはただ受けているだけでなく、「責め」である。少しでも攻め方を誤ると、一瞬にして負けに陥る。だが、届かない。そして攻め疲れて休んだ一瞬の反撃で、一撃で仕留める。大山の中終盤術に、誰もが翻弄(ほんろう)された。
 
 大山は目の前の勝利だけでなく、長く勝ち続けることにこだわった。たとえば「棒銀」という戦法があるが、これに対しては4二金(6八金)と備えるのが決定的な対策だと思われている。これを発見したのが大山なのだが、自身は数局しか指していない。なぜなら、この対策が決定番だと知られると、他の棋士が棒銀戦法を採らなくなるからだ。だから、最善手以外の戦い方で戦い、そして勝ち続けたのだ。口で言うのは簡単だが、実行できたのは大山くらいしかいない。

 衰えが見えるが、まだまだ絶頂期に近い力を保持していた大山を倒したのが、中原誠だ。昭和48年、政界では若き田中角栄が総理の座を射止めていた。この年、中原と大山は名人戦7番勝負で、4勝3敗のフルセットの激闘を繰り広げている。第2局、中原が攻め込み勝ちと思われた終盤、大山は「8一玉」と最も危なそうな場所に逃げ込む。ところが、それだけが大山玉が助かる唯一の場所で、将棋史に残る絶妙手で激戦を制した。大山曰く、「それしか方法がないから、そこに逃げた」である。

 まだまだ中原は大山に届かないと思われ、3勝2敗と追い込まれる。ここで中原は、「ここで負けても、全戦全勝でまた挑戦すればいい」と開き直る。名人挑戦者を決めるA級順位戦を、全戦全勝できるとの自信だ。

 そして中原は、大山の得意戦法である「振り飛車」を2局連続で採用する。ここで幸運だったのは、大山が最も得意とする戦法が「振り飛車退治」だと知らなかったことだ。こういうとき、棋士は「大山先生に振り飛車退治の方法を教わろう」との発想になる。自分の得意戦法の弱点は、最も得意とする棋士が知っているだろうとの考え方だ。

 大山もその後約20年、死ぬまでA級に留まった。つまりトップ10の実力を維持した。また、中原以外にはなかなか負けず、がんで闘病する晩年までトップ5を維持したので、「超人」とも言われる。その大山を崩したので、中原は時代を築いた。

 中原将棋は攻めを基調としつつも、「自然流」と呼ばれる堂々とした棋風である。一言で言えば、「行くぞ行くぞと見せかけて、相手の無理な攻めを誘い、攻め合いの末に倒す」となる。自分は万全の体制を築いているので、攻め合いになったら勝てるとの戦い方だ。間合いをはかりながら、相手を追い詰めて、無理に攻めさせる。仮に攻めてこなければ、自分から攻めていって潰す。相手は一方的に攻め潰される恐怖から、無理な仕掛けを断行するのだ。
中原誠永世十段
中原誠永世十段
 序盤は常に工夫をして、相手を自分の研究に引きずり込む。中盤では陣形を十分に組んでいるので負けない。仮に不十分な陣形でも耐える力量がある。終盤は正確に仕留める。

 中原は、米長邦雄や加藤のような強敵と戦いながら、大山の18期に継ぐ、名人15期である。二度の返り咲きを果たしたのは、中原が最初である。十六世名人となった。十七世名人の資格保持者が、現在も現役の谷川浩司である。21歳で史上最年少の名人となった谷川については、以前「今こそ語りたい『光速』谷川浩司の凄さ」で一度書いた。