その根拠は、自社両党の衆院選における公認候補者数に如実に見て取れる。

 日本国憲法のもとで内閣総理大臣を自らの党から輩出して政権運営に当たらんとするならば、衆議院総定数の半数を超える「当選者」を出さなければならず、そのためには衆議院総定数の過半の「候補者」を擁立する必要がある。原則として当選者数は擁立した候補者数を超えることはないからだ。「何を当たり前のことを」と多くの方は思われるかもしれない。

 ところが55年体制の下で、この「当たり前」のことである「単独で衆議院定数の過半の候補者擁立」を続けたのは、自民党のみであった。日本社会党が単独で衆議院総定数の過半の候補者を擁立し得たのは58年の衆院選においてだけである。

 その選挙でさえ政権奪取を果たすには、同党候補者246人中234人が当選する必要があった。つまり当選率95%超でようやく過半数に届くという瀬戸際の数字であって、それはまず実現しそうにもなかった。

 なお、日本共産党は半数を超える候補者を擁立したことはあったが、これに関しては当選の可能性から考えて度外視して差し支えない。

 つまり自民党以外の政党は、常に不戦敗の選挙を続けていた。55年体制とは与党と野党が固定化し、それぞれの機能を特化した体制であった。自民党には政治の運営を、野党には自民党政権の暴走への歯止めとしての機能しか期待されなかったのだ。
1955年、講和条約と安保条約への対応をめぐり4年前に分裂した左右両派の社会党が統一し日本社会党として発足した。鈴木茂三郎委員長(右)と浅沼稲次郎書記長の就任が決まり野党第1党に。危機感を抱いた保守の日本民主、自由も翌月に自由民主党を結党し、保革が対立する55年体制がスタートする。
1955年、講和条約と安保条約への対応をめぐり4年前に分裂した左右両派の社会党が統一し、日本社会党として発足。鈴木茂三郎委員長(右)と浅沼稲次郎書記長の就任が決まり野党第1党となった。
 衆議院で過半数を得るには、どうしても同じ選挙区に複数の候補者を立てねばならない。だが、当時の選挙制度である、候補者一人だけを選ぶ単記制の下では、それは共倒れの危険をはらむ。同じ選挙区の自民党議員は、異なる派閥に属して政党組織からはかなり独立して選挙を戦うことが常であった。

 自民党だけが共倒れの危険を冒してまで一選挙区に複数候補者を擁立する活力を維持し得たのは、一つには派閥の効用ゆえであろう。一方で野党側、とりわけ55年体制初期には衆議院総定数の過半数の候補者を擁立して政権に挑む潜在力をまだ有していたと思われる社会党は、野党第1党の座に甘んじて、次第に国会での取引を生業とする存在になり果てていった。