立川談四楼(落語家)

 客席が真っ白に見えたんです。シートカバーの白ではなく、お客のマスク姿がです。それが2月下旬で、そのとき初めて「これは大変な事態になるぞ」との不安が生じました。

 それまで軽く考えていました。「すぐに終息するだろう」と。横浜港に停泊したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」から患者が出ても、まだ楽観視していました。加藤勝信厚生労働相(当時)も船内に入るのに「防護服はいりません」と言いましたし、私は日本のクルーズ船「飛鳥Ⅱ」に何度も仕事で乗った経験があり、船内の様子を高座でしゃべったりしました。

 「武漢熱」と言う人が多かったですね。事が深刻になるにつれ、それは差別的だ、新型コロナウイルス感染症、もしくは「CОVID-19」をちゃんと呼ぼうということになりました。今、武漢熱などと言おうものなら、「このヘイト野郎」と認識され、その人は友達をなくすでしょう。

 3月に入ると、まだ落語会は開催されつつも、いくつかキャンセルが出ました。残った仕事もこなしつつ、これはいかんなと思うようになり、一度驚いたのは、電車の中でせきをしてにらまれたことです。

 4月に入ると、キャンセルが相次ぎ、直接会ってや電話ではしにくい話なのか、中止をメールで知らせる人が多いことに苦笑いしました。延期もアテにしなくなりました。それは必ず中止になるのですから。

 4月、5月と落語の仕事は一本もありませんでした。緊急事態宣言、ステイホームというヤツです。そう、アベノマスクもありました。マスク不足を解消すべく、当時の総理、安倍(晋三)さんが国民に配ったのですが、安倍さんのマスクがアベノマスクという普通名詞として定着するのに時間はかかりませんでした。
「アベノマスク」を着用する安倍首相(当時)=2020年8月、首相官邸
「アベノマスク」を着用する安倍首相(当時)=2020年8月、首相官邸
 なかなか届かずに、マスクが出回った頃に届く間抜けさ、そこに巨費が投じられたことに国民は怒り、揶揄(やゆ)されるようになったわけです。安倍さんが公開した動画も星野源を利用したと、散々な評判でしたね。とにかく安倍さん、人を怒らせることにかけては名人級なのです。

 私はその頃書いた短編小説に小道具としてアベノマスクを使いました。コロナ禍が終息した近未来、主人公は地方都市における独演会にアベノマスクを着けて登場し、大きな笑いを取るのです。「なぜ、アベノマスクは二つで小さいのか。このように一つは鼻、もう一つは口に着けるために小さいのです」と。