橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 天正元(1573)年3月19日、宣教師ルイス・フロイスは信長が自らを「ドイロクテンノマオウ(第六天魔王)」(フロイス書簡)と称したと報告した(『耶蘇(やそ)会士日本通信』)。それから6年後、安土山に出現した信長の世界は、仏教の敵である第六天魔王から一歩進んで、仏教のみならず儒教の世界も中国古代神話をも足元に従える「超越した存在」を示すものだった。

 その存在こそが信長であり、安土城とその城下町が出来上がったのを見たフロイスはこう記録している。

 「(信長は)途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価(あたい)する者は誰もいないと言うに至った」。

 まさに「言行一致」。信長は目で見える形で自己を頂点とする世界観を造り上げ、同時に言葉によってもそれをダイレクトに発信したわけである。

 「我こそは礼拝の対象となる唯一神なり」

 天下統一を目指す信長にとって、天皇・将軍はおろか仏や神さえも己(おのれ)の下にひれ伏す存在であり、みな等しく信長だけを敬仰せよ、という恐るべき傲慢さ。これは来たるべき将来の支配体制のための壮大なる基本理念だった。

 実は、この支配理論は何も安土城の完成後から説かれ始めたわけではない。それどころか、築城開始1年前の天正3(1575)年9月のことだが、当時信長によって越前国(現在の福井県北部)のうち八郡の主に任じられた宿老、柴田勝家はこういう教訓状を授かっている。

 「事新しき子細候(そうろう)といえども、何事においても信長申し次第に覚悟肝要に候。さ候とて無理非法の儀を心に思いながら巧言申し出だすべからず候。その段も何とぞかまいこれあらば、理(ことわり)に及ぶべし。聞き届けそれに随(したが)うべく候。とにもかくにも我々を崇敬して、影後(かげうしろ)にてもあだに思うべからず。我々ある方へは足をも指さざる様に心持ち簡要に候。その分に候えば侍の冥加(みょうが)ありて長久たるべく候」

 どうだろうか。以下口語訳しておこう。
「殿様御氏神」と書かれた柴田勝家が出した諸役免許状(複製)。劒神社を織田信長の氏神としている=2020年7月、福井県越前町の織田歴史文化館
「殿様御氏神」と書かれた柴田勝家が出した諸役免許状(複製)。劒神社を織田信長の氏神としている=2020年7月、福井県越前町の織田歴史文化館
 「新しい事態が起こっても、何事も信長の指示次第にしなければならない。だからといって、それは信長の指示に無理や非法があるのを知っていながら、おべっかを使いおもねってもいけない。その件で支障があるということならば、ちゃんと説明せよ。確かめて道理があれば聞き入れてやる。とにかく信長を崇敬して、裏でも粗略に思うな。信長がいる方角へは足を向けないよう心がけることが大事だ。そうしていれば、武士としての利運にも恵まれて末永く栄えることができるぞ」

 まさに信長を神と崇め、心の奥でもおろそかにするなという思想統制である。しかも、それを順守すれば武士としても幸運に恵まれるというアメまで付けたムチだ。