兵糧攻めは、単なる長期戦ではなかった。攻撃側は城を取り巻きながらも、できるだけ短期で終結するようあらゆる策を講じ、同時に調略戦を仕掛けるなどし、多方面から降伏・開城を迫った。戦国の早い段階では、攻撃側の兵糧が尽きて撤退することもあったが、秀吉の時代になると、圧倒的な物量戦で籠城側を落城に追い込んだのだ。

 以下、兵糧攻めの代表例を取り上げるが、煩雑さもあるので、史料(特に一次史料)の注記は最小限にしている。また適宜、二次史料の記述を挙げて、兵糧攻めの残酷な状況をあらわした。

 天正5(1577)年10月、織田信長は毛利氏と対決すべく、羽柴(豊臣)秀吉に中国計略を命じた(『信長公記』)。秀吉は信長の期待に応え、上月城(兵庫県佐用町)などの諸城を次々と落とした。

 秀吉が中国計略を進めるうえで、最も頼りにした武将が三木城(兵庫県三木市)の別所長治である。しかし、天正6(1578)年2月、長治は秀吉に叛旗を翻し、毛利方に寝返ったのである。

 ここから戦国史上に例を見ない凄惨な兵糧攻め「三木の干殺し」が展開される。

 三木城をめぐる攻防で注目されるのは、付近の諸城での戦いだ。天正6年4月、毛利氏は加古郡別府(兵庫県加古川市)から侵攻しようとし、阿閉城で別所重棟と戦った。秀吉は黒田官兵衛を遣わし、これを撃退している。

 ほぼ同じ頃、付近の野口城主の長井氏、神吉城主の神吉氏、志方城主の櫛橋氏が、それぞれ秀吉に降参した。別所氏は加古川付近の城を次々と落とされ、苦境に立たされる。

 秀吉が加古川付近の別所方の城を落とした理由は、毛利方が海上から三木城へ兵糧を運搬する経路を断つためである。海上から三木への経路を立たれた毛利氏は、ただ戦況を見守るしかなかった。

 天正6年7月、秀吉は三木城を見下ろす平井山に城を築くと、一斉に付城を構築した。三木城の周囲に付城を築いたのは、兵糧や情報のルートを断つためだ。秀吉が築いた付城の数は、尋常な数でなかった。

 当初、付城は2、3カ所ほど、三木城の向かいに築城された。その後、加古口にも築かれ、海上からの毛利氏の上陸を困難なものした。さらに、三木城の西方面の道場河原、三本松(兵庫県神戸市)にも、付城は築かれた。天正8(1580)年になると、付城の数は50か60にもなったという(『信長公記』)。こうした秀吉の付城による包囲網は、じわじわと別所陣営を追い詰める。

 秀吉に付城を築かれたので、別所氏の兵糧搬入は極めて困難になった。天正6年10月に荒木村重が信長を裏切った直後、有岡城(兵庫県伊丹市)から花隈城、丹生山、淡河(いずれも神戸市)というルートで兵糧が搬入されていたが、秀吉は淡河(おうご)に砦を築いて阻止した。この時点において、三木城への兵糧搬入ルートはほぼ断たれたのである。
馬上の別所長治像が立つ三木城跡=兵庫県三木市
馬上の別所長治像が立つ三木城跡=兵庫県三木市
 天正7(1579)年6月、毛利氏は配下の鵜飼氏らを派遣し、三木城に兵糧を搬入しようとした。鵜飼氏らは明石の魚住に着岸し、三木城へ兵糧を運ぼうとしたが、秀吉は三木から魚住のルートを遮断すべく付城を築いた。

 付城には番屋、堀、柵、乱杭、逆茂木を設け、表には荊(いばら)を引き、深い堀が設置された。それは、獣や鳥も逃れ難い包囲網だったという(『播州御征伐之事』)。それでも毛利方は、兵糧の搬入を試みた。