同年9月10日、芸州(毛利氏)、雑賀、播磨の衆が三木城に兵糧を搬入すべく動いた。御着(小寺氏)、曽禰、衣笠の諸氏ら播磨の衆の援軍には、別所方の勢力も加わった。毛利方の軍勢は美嚢川を北に迂回、大村の付城の谷衛好(もりよし)を襲撃し、これを討った(大村合戦)。この戦いで、三木城にはわずかばかりの兵糧が入ったのかもしれないが、到底十分なものではなかったに違いない。

 天正7年10月以降、秀吉は南の八幡山、西の平田、北の長屋、東の大塚に付城を築き、三木城を本格的に包囲した。付城の二重にした塀には石を投げ入れて、重ねて柵を設けた。

 また、川面には簗杭(やなぐい)を打ち込んで籠を伏せて置き、橋の上には見張りを置いた。城戸を設けた辻々には、秀吉の近習が交代で見張りをしたのである。

 付城に入るには守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めなかった。夜は篝火(かがりび)を煌々(こうこう)と焚き、まるで昼間のようだったという。もし油断する者があれば、上下を問わず処罰し、重い場合は磔となった。当然、三木城には兵糧が入らず、やがて城内には飢餓に伴う惨劇が発生した。

 三木城内の兵糧が底を尽くと、餓死者が数千人に及んだという。はじめは糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食していたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べた。当時、あまり口にされなかった肉食類にも手が及んだのである(『播州御征伐之事』)。

 それだけでなく、ついには人を刺し殺し、その肉を食らったと伝える。その空腹感は、想像を絶するものがあった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を端的に物語っている。

 年が明けて天正8(1580)年1月、秀吉は三木城への総攻撃を開始し、落城寸前にまで追い込んだ。秀吉は三木城内の長治、賀相(がそう)、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命する条件を提示した。

 結果、別所一族は切腹して長い戦争は終結した。近年、秀吉は約束を反故にし、長治らの切腹後に別所方の城兵は皆殺しになったという説も提起されており、今も議論が続いている。
大宮神社で見つかった等身大の豊臣秀吉坐像=2020年5月20日、大阪市旭区
大宮神社で見つかった等身大の豊臣秀吉坐像=2020年5月20日、大阪市旭区
 別所氏の敗因は、毛利氏の後巻(援軍)を得て、秀吉の付城を突き崩すことができなかったからだ。それゆえ、毛利氏の播磨上陸が不可能になると、兵糧も武器も搬入されず、まったくの孤立無援になった。有岡城における荒木村重の苦戦も大きな誤算だったであろう。つまり、秀吉の付城の包囲網が功を奏したといえよう。

 一方の秀吉は、戦いで将兵を消耗することなく、長期戦に持ち込んだことが勝因だった。加えて、戦いの途中で宇喜多直家は毛利氏が不利と考え、織田方に寝返った。兵糧攻めは、周囲に優勢を伝える大きな宣伝になった。この戦いを機にして、秀吉は兵糧攻め、水攻めを多用するようになる。

 このように、籠城戦にはメリット、デメリットがあるものの、豊富な物量に恵まれた場合は、圧倒的に攻城側が有利だったのだ。