フランスは地中海の東側には何ら利権もなく、キプロスに領土としての軍事基地を持った英国を差し置いて空母を派遣し、トルコをけん制するに至っては、トルコ政府も「常軌を逸した行動」と反論している。このような状況のもとで、国内では新型コロナの感染対策に注力している。そのさなかに、極めてセンシティブな歴史的関係を持つアルメニアとの戦争に乗り出す理由などトルコにはなく、それだけの財政的余力もない。

 アルメニアのパシニャン首相が、「トルコがナゴルノ・カラバフでの衝突に介入している」、「トルコが主敵だ」と非難したのは、衝突が起きた直後であり、これはトルコ国民にとっては寝耳に水の話だった。トルコという国は国軍と情報機関への信頼度が高い。自国の安全保障や関連する情報は、事前に政府筋から流れるのが通例だ。そのため軍を派遣するには、議会で喧々諤々(けんけんがくがく)の議論をした上で議決している。

 まったく何の前触れもなく、突然、アルメニアがアゼルバイジャンとの国境地域を攻撃し、アゼルバイジャン軍が反撃したというのがトルコで流れた第一報だったのである。その直後にトルコが関与していると報じられたことによって、逆にトルコ政府のみならず国民も事態の背景をすぐに理解した。一言でいえば、アルメニアのパシニャン政権が暴走したというのがトルコ側の理解である。そこでアゼルバイジャン政府との緊密な情報共有によって、紛争の調停をロシアに働きかけることに集中したのである。

 この問題に関するトルコの立場は以下の2点と明確である。

・ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャン領であり、アルメニアは違法な占領をやめて占領地から撤退しなければならない。

・本件に関して、アゼルバイジャンがとる決定について全面的に支持する。

 現時点でトルコ自身はあくまでモラルサポートに徹し、アルメニアの挑発には乗らない姿勢を明確にしている。そしてロシアがこの問題に関して、アルメニアに冷静な態度を促すことを期待している。

 実際、ベラルーシでの反政府デモ、さらに政敵アレクセイ・ナワリヌイ氏への毒殺未遂疑惑で国際的非難を受けているプーチン政権にとって、ここでアルメニアがアゼルバイジャンと衝突したことは不愉快な事件以外の何物でもない。しかもパシニャン首相は前任者たちと異なり、彼が欧米諸国に認められようと動いてきたことも、ロシアにとっては不快感を増幅させる一因となっている。
アルメニア側が実効支配するアゼルバイジャン・ナゴルノカラバフ自治州で、戦闘に巻き込まれ負傷した2歳男児に付き添う母=2020年9月29日、ステパナケルト(ゲッティ=共同)
アルメニア側が実効支配するアゼルバイジャン・ナゴルノカラバフ自治州で、戦闘に巻き込まれ負傷した2歳男児に付き添う母=2020年9月29日、ステパナケルト(ゲッティ=共同)
 ロシアが停戦順守を両国に訴えたのにもかかわらず、10月12日の段階で停戦は機能していない。さらに、両国は自国民に犠牲者が出ていることを国際社会に訴えている。この問題でのプロパガンダ戦争の検証を妨げているのは、新型コロナウイルスである。モスクワに拠点を置くメディアも、ヨーロッパに拠点を置くメディアも、現地で取材をすると帰国できない可能性が高い。したがって、両国の発信する情報、それも移民の多いアルメニア側の情報が圧倒的な強さをもって世界中に流布する状況をつくり出していることに疑いの余地はない。

 日本において、この紛争を取り上げる報道は少ない。だが、南カフカス地方の小国同士が繰り広げるこの紛争は、現代の戦争の姿を体現している。ドローンによる攻撃、会員制交流サイト(SNS)やフェイクニュースによる情報戦など、新たな形の戦いが見て取れる。だからこそ、両者の歴史や背景、地理的要素など複合的な視点から分析し、安易に流されないようにすることが、国際関係のみならず、物事の本質を見極めるのに重要であろう。