柿沢未途(衆院議員)

 皆さんは、障害のある方々のアートに出会ったことがあるだろうか。思わず見入ってしまう強い印象をもたらす色彩感覚、新しい生命体のような奇妙な造形、驚くほどの集中力で点や線を重ねていく精細な描き方、どれも私にはとてもマネできない作品の数々だ。

 1998年の長野冬季オリンピック・パラリンピック当時、私は駆け出しの記者としてNHK長野放送局に勤務していた。そのとき、ちょうどパラリンピックと併せて行われた障害者アート展覧会の取材担当となった。

 当時の私は「恵まれない人が頑張って描いたお絵描き」という感覚しか持たないまま、取材に出かけた。しかし、そこで出会った作品の数々に、私は強い衝撃を受けた。「これはすごい」と思わず声を漏らしたそれら作品の数々は、決して言葉では表せない魅力的な作品ばかりで、ある意味パラリンピック以上の素晴らしさがそこにはあった。

 もちろんパラリンピックは障害の有無を超えて、障害者が生き生きと活躍できるノーマライゼーションの理念を具現化した崇高な意義を持つスポーツ大会だ。ただ、障害者アスリートが対等な条件の下、健常者のアスリートと競い合って対等の記録を出すのはほとんどの場合難しい。

 だが、アートでは違う。障害者のアートの生み出す驚きと感動に、健常者である私はとてもじゃないが太刀打ちできない。逆立ちしたってかなわないだろう。

 障害者と健常者の関係性は、よく「助ける―助けられる」という福祉的な視点で見られがちだ。けれども、障害者と言われる人々と健常者と言われる人々の違いは、どちらかが優れているとか劣っているかではない。それぞれが別々の個性や才能を持つ存在であり、本来はそれぞれがお互いを認め合い、たたえ合い、支え合うべきなのだ。

 その「気づき」を与えてくれるのが、障害のある方々のアートとの出会いなのだ。「助ける―助けられる」という福祉的な視点を超えて、内なる魂をそのまま表現したような障害のある方々のアート作品たちを、先入観を持たず、曇りなき目で鑑賞し、彼ら彼女らの非凡な個性や才能をリスペクトする。長野で衝撃を受けて以来、そのようなきっかけとなる場をいかにしたらつくれるかと、長年思案して来た。

 そこに2020東京オリンピック・パラリンピックの招致がやってきた。しかも一部の競技が私の地元である江東区が開催地である。「私が長野で最初に味わった驚きと感動を、私自身のホームタウンで実現したい」との想いが日に日に高まっていった。

 パラリンピックに合わせて、日本全国数多くの障害者アートの展覧会が企画された。障害者の文化芸術活動を支援する法律も制定され、公的な支援制度も充実していった。
富岡八幡宮など東京都・深川の街中にアート作品が展示される(写真提供:アートパラ深川公式サイトより)
障害者アートが展示される富岡八幡宮の参道(アートパラ深川おしゃべりな芸術祭実行委員会)
 しかし、ハコモノの美術館で行われる展覧会は元々興味のある人だったり、家族や支援者らのいわば「身内」だけで完結しがちなため、一般の方々への浸透はなかなか難しい。障害者アートと出会う機会がないがゆえに「気づき」を得られていない、輪の外側にいる多くの方々へどのように出会いをもたらしていくか。その問いへの結論として目指したのが「アートパラ深川おしゃべりな芸術祭」の開催であった。