渡邊大門(歴史学者)

 社長が代わると、幹部社員が総入れ替えということも珍しくない。旧社長の人脈をすべて断ち、新社長が気心の知れた部下を登用する。旧社長の勢力は一掃され、新社長のもとで、新たな社員たちが強い結束を結ぶ。極端かもしれないが、ありがちな話である。

 実は、戦国時代から江戸時代にかけては、まさしくこのような改易(かいえき)の嵐が吹き荒れ、覚えがめでたくない大名は一掃された。

 なぜそうなったのか、理由を考えてみることにしよう。

 慶長3(1598)年8月、時の最高権力者である豊臣秀吉が没すると、徳川家康は満を持していたかのように、天下取りに名乗りを上げた。家康が秀吉の遺言を次々と破り(私婚を進めるなど)、秀吉の後継者である秀頼を蔑ろにしたことは、あまりに有名である。

 やがて家康は西軍を率いる毛利輝元、石田三成と対立し、慶長5年9月に関ヶ原合戦が勃発した。この戦いでは家康率いる東軍が圧勝し、敗れた西軍の諸将の中には厳しい処分を受ける者もいた。いくつか例を挙げておこう。

 西軍のリーダーである石田三成、小西行長、そして秀吉の側近であった安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は斬首となり、死をもって敗北の責任を負わなければならなかった。当然、彼らの所領は没収された。恵瓊に至っては、毛利氏がすべての敗北した責任を後世に押し付けた。

 また、若き五大老として名を馳せた宇喜多秀家は、後述するが備前・美作などの所領を没収され、長い逃亡生活を余儀なくされた。むろんこの例以外にも、多くの大名が改易の憂き目に遭った。徳川家による大名改易の原形は、この時点に遡ることができよう。

 このように家康が戦勝者となり、大名を処分しうる立場になったことは、必然的に秀頼の地位低下を意味した。

 慶長8年、家康は征夷大将軍に就任し江戸幕府を開幕した。続く慶長19年、20年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼすと、名実ともに天下を掌握し、大名政策に力を入れた。そして、大名統制を意図して制定されたのが、「一国一城令」と「武家諸法度」なのである。
 
 家康が全国統治権を行使する中で、大名統制を積極的に行うことは必然の帰結だった。後に「徳川300年」とはいうものの、江戸幕府開幕直後はまだ安泰と言い得るような状況ではない。そのため、関係する法の制定と整備・運用が喫緊の課題だったのである。
江戸幕府が置かれて400年を機に初めて一般公開された徳川家康像=2003年11月、京都市東山区の知恩院
江戸幕府が置かれて400年を機に初めて一般公開された徳川家康像=2003年11月、京都市東山区の知恩院
 その第一弾というべきものが、元和元(1615)年閏6月に制定された「一国一城令」である。豊臣家滅亡直後という、格好のタイミングであった。「一国一城令」とは、その名が示す通り一つの領国に一つの城しか認めない法である。

 「一国一城令」により、本城を除く支城はすべて破却が命じられた。この法令は、必然的に各大名の戦力を削減し、戦闘意欲を削ぐ効果があった。