この状況を幕府が見逃すわけがなかった。慶長13年、茂勝は幕府から改易を申し渡され、所領を没収されることになった。そして、甥である出雲国松江(島根県松江市)の堀尾忠晴に茂勝は預けられた。のちに茂勝は悔い改め、クリスチャンとして真面目な生活を送ったという。

 この事例は、「当主乱行」から執り行われた改易として知られるものである。
 
 では、元和元年に制定された「武家諸法度」の制定後には、どのような事例があるのであろうか。ここでは、福島正則の例を見ることにしよう。

 「賤ケ岳の七本鎗」と称せられた福島正則は、秀吉子飼いの大名として知られるが、関ヶ原合戦では東軍に味方し、以後も家康に従った。その軍功により、備後、安芸の両国49万石を与えられ、名実ともに大大名となった。

 このような正則に隙があったのは事実である。元和5(1619)年に正則が上洛しようとする直前、その前年から広島城を改修していることが幕府に伝わった。城郭の改修には事前の許可が必要であり、「武家諸法度」に反した行為である。

 この事実を聞き及んだ秀忠は、広島城の本丸以外(二の丸、三の丸、惣構え)をすべて破却することで、いったんは赦免しようと考えた。安堵に胸を撫で下ろした正則は、早速指示に従うことにした。しかし、正則が行ったのは、本丸の壁を取り、土や石を取り除くという簡単なものであった。

 正則としては、簡単に対応したことが幕府に対する「降参」の意であり、処分を形式的なものと軽く受け流した様子がある。だが、この一報を耳にした秀忠は破却が不十分であるとして、直ちに正則の領国(安芸・備後)を没収したのである。青天の霹靂(へきれき)とは、まさしくこのことであろう。
広島城二の丸=広島市
広島城二の丸=広島市
 その後、正則は信濃国(高井郡)・越後国(魚沼郡)に移され、自らは子の忠勝に家督を譲り蟄居(ちっきょ)した。翌年、忠勝が早世すると、2万5千石を返上した。

 そして、正則が亡くなった際、幕府検使が到着する前に、遺骸は無断で荼毘(だび)に付された。そのため残りの2万石も取り上げられ、正則の子正利は3千石の旗本にまで身分を落としたのである。

 このように、いったん改易処分を受けると、その後の復活は難しく、それどころか這い上がれないほどに転落することもあった。正則の例は、その悲惨なものの一つであるといえよう。
 
 むろん、改易は福島氏のような外様大名に限らず、同じ徳川家の者にも及んだ。