たとえば、松平忠輝は家康の6男であったが、その容貌が原因で、忌み嫌われていたという。しかし、忠輝は伊達政宗の娘五郎八姫と結婚し、後に越後国高田城(新潟県上越市)主として、60万石を領した。大坂の陣にも出陣しているのである。

 事件が起こったのは、家康が亡くなった翌年の元和2年のことである。突如、秀忠は忠輝の領地を没収し、伊勢国朝熊(三重県伊勢市)へ配流とすることを決定した。それには理由がいくつかあった。

 一つには、忠輝が日頃から酒に溺れ、乱暴な振る舞いがあったという理由である。もう一つは、大坂の陣での行状であり、参陣の命があったにもかかわらず、戦場へ遅参したことと、軍列を追い越した秀忠直属の旗本を斬り殺したことである。さらにもう一つは、大坂の陣の戦勝を朝廷に奏上する際、忠輝は病気を理由にして参内に応じなかったことである。

 このような理由によって忠輝は改易されたが、生母の執り成しも聞き入れられなかったという。その後、忠輝は朝熊から飛騨国高山(岐阜県高山市)、信濃国諏訪(長野県諏訪市)へと移され、亡くなったのは天和3年。92歳であった。

 このように、改易処分は徳川家の縁者であっても及ぶことがあり、容赦がなかったのである。
 
 以上の通り、関ヶ原合戦以後、徳川氏は次々と改易を行ってきた。事例では特に挙げていないが、他の改易理由としては、後継者の不在、御家騒動などがある。関ヶ原合戦の戦後処理は別として、江戸幕府以後の改易はどのように考えればよいのであろうか。

 家康という絶大な権力は別格として、子の秀忠、家光への家督の継承過程は、不安視されたと考えられる。こうした不安定さを克服するためには、必然的に大名抑制政策を採らざるを得なかった。特にターゲットとなったのは、豊臣系の有力外様大名であった。

 先述の福島正則や加藤忠広(加藤清正の子)は、その代表と言えるであろう。こうして、将来の火種となりかねない大身の外様大名は、改易の憂き目にあったのである。代わりに登用されたのは、池田光政や細川忠利などの親徳川派の外様大名であった。

 また、小規模な大名の改易や転封も盛んに行われ、特に譜代大名を西国方面に配置することが重要視された。幕府の基盤を西国に根付かせるためである。同時に、関東や東北の重要拠点にも、譜代大名が配置された。
関ヶ原合戦の地に建てられた石碑(ゲッティイメージズ)
関ヶ原合戦の地に建てられた石碑(ゲッティイメージズ)
 こうして幕府は国内に絶対的権力を確立し、おおむね17世紀中に改易・転封は一段落した。時代はちょうど、5代将軍綱吉の頃である。しかし一方で、改易は浪人を大量に生み出すことにつながり、社会不安を増大させたことも忘れてはならない。