橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 一見短気でせっかちな印象を受けがちな信長だが、ここ一番で慎重さが必要というとき、彼は誰よりも念には念を入れるタイプだった。

 こんなエピソードが残っている。甲斐の虎・武田信玄が強勢だった当時、信長は誼(よしみ)を通じるために贈り物をした。

 信玄の家臣たちが「信長は油断ならぬ男。贈り物などで信用されませぬように」と進言すると、信玄は「わしもそう思っていた。だが、これを見てみよ」と贈り物が収められていた箱を示す。「ためしにこの箱の角を削ってみたが、漆が何重にも塗り重ねられた大変な高級品だ。信長の誠意が感じられるではないか」と言うのだ。

 権謀術数に長けた信玄ですら、だまされるほどだったというこの逸話は史実と確認できるわけではないが、上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」に謙信の姿を描き入れさせて媚びを売ってみたり、姉川の戦いで勝った後、浅井長政の小谷城を一気に攻め落とそうとしなかったこと、長篠の戦いで大規模な陣城を築いて勝ち、逃げる武田勝頼を追撃しようとしなかったこと、大坂本願寺の石山城攻略に11年もかけたことなど、彼の慎重さ、用意周到ぶりを示すネタには事欠かない。

 そんな信長が、裏鬼門の方角を三輪山の神木に秘められた蛇神パワーで補修した石清水八幡宮で固めたこともその入念ぶりの表れだが、彼が常人にあらざるところはそれをさらに確実なものにする工夫をほどこした点だ。

 それは安土城から石清水八幡宮へのルート上に別のパワースポットを置き、さらにその力を高めるという手法だった。南西へ5キロあまり、現在の滋賀県近江八幡市中村町726に龍亀山大雲院西光寺という浄土宗の寺院がある。

 天正7年(1579)年5月11日、安土城天主に移り住んだ信長が、直後城下で浄土宗と日蓮宗の論争が起こったときに「安土宗論」と呼ばれる宗教対決を行わせたことはよく知られている。

 両宗派の論客が信長の命によって集合させられた会場は、金勝山浄厳院。天正5(1577)年に信長の肝煎りで創建された。これも浄土宗の寺院だが、安土城下町の西南端に位置することで分かるように、信長はこの寺を安土城本丸から摠見寺を経てつながる方位ラインとして既定された。いわば、安土城裏鬼門構想のファーストステージとなる。

 この浄厳院で実施された安土宗論で浄土宗方の論者となったのは貞安(ていあん)。これに対して日蓮宗方は日珖(にちこう)だった。そして「法華の妙を、あなたは知らぬのか」と突っ込む貞安に対し日珖は返答につまり、審判の南禅寺・景秀が浄土宗側の勝利を宣言。
浄厳院本堂=滋賀県近江八幡市(筆者撮影)
浄厳院本堂=滋賀県近江八幡市(筆者撮影)
 日蓮宗側は殴られ嘲笑されて袈裟をはぎとられたうえ、後日莫大な罰金を科されて京だけでなく堺の傘下寺院からもかき集め、なんとか200枚の黄金(2千両、現在の価値で5億円前後)を支払う羽目となった。しかも、日蓮宗は「負けを認め、今後他宗派を攻撃しない」という一筆も取られて、のちに豊臣秀吉から赦免をもらうまで逼塞(ひっそく)することとなる。

 信長は、排他的で強い攻撃性を持ち、かつては天文法華の乱を起こすなど世俗の権力を無視して社会不安の要因ともなった日蓮宗を徹底的に無力化して統制下に置こうとしたわけだ。