それはさておき、ここでの問題はこの貞安という学識高い僧についてである。彼について、この宗論の経緯を記した『信長公記』はこう説明している。

 「安土田中の貞安長老」。安土田中というのは安土の町の田中というところにある西光寺のことで、貞安はその住持だった。現在の住所では滋賀県近江八幡市中村町726となっており、今も同地に龍亀山大雲院西光寺はある。

 寺伝によれば安土宗論での功績によって貞安が信長から寺地を与えられて翌天正8(1580)年に創建したということになっており、『信長公記』とは時系列が違うのだが、同書の筆者である太田牛一はリアルタイムのメモ書きを後から並べて清書する手法をとっていたために齟齬が生じたのだろうか。

 いずれにしても、安土城竣工の前後期間に西光寺が開創されたのは間違いない。しかも、山号の「龍亀山」はまさに信長が信奉した龍と、そして龍の子とされる亀(古代中国では亀の形をし、頭に角を生やした「贔屓(ひいき)」という架空の聖獣を〝龍の子〟として尊んだ。壷の足などにその象形が施されており、のちに時代がくだるにつれて亀と混同される)のパワーを取り込むための拠点としての命名ではないか。

 浄土宗のやり手で知られる貞安が主僧を務める西光寺。この寺が浄厳院と石清水八幡宮をつなぐ最後のミッシングリンクで、これにより安土城本丸―摠見寺―浄厳院―西光寺―京―石清水八幡宮の裏鬼門ラインが完成したことになるのだ。

 フロイス『日本史』はこのライン(安土街道)の京までの部分について「畳5、6枚分の広さを持ち、平坦で直線的で両側に松と柳の並木が整備され、常に清掃され、一定間隔で休憩用の茶屋が置かれている」と描写している。

 次に、安土城の南の方角の固めはどうなっていたのだろうか。南を吉相にしておくと第六感が冴え才能を発揮できるというが、この方角についてはまったく疑問の余地がない。日本有数のパワースポット、熊野三山だ。本宮大社、那智大社、速玉大社(新宮)が鎮座する「熊野三山」のトライアングルは最強の魔除けと言えるだろう。

 特に那智大社の滝には龍が宿るとされ、全国に勧請された熊野神社でも、龍をあしらった神輿が用いられた。

 しかも、この方角についても信長はライン上に別のパワースポットを置いて効果を高めるという手法をとっている。それは、安土城のすぐ東隣りの観音寺山(繖山)の尾根が南へ伸びる終端部分にある竜石山だ。現在ではJR東海道線の安土駅をはさんでちょうど城跡と線対称に位置しており、名前からして、龍が鎮座する石の山ということだろう。
観音寺山(繖山)=滋賀県近江八幡市(筆者撮影)
観音寺山(繖山)=滋賀県近江八幡市(筆者撮影)
 信長は安土城下町を開発するにあたって、この竜石山の南に道を開き、老蘇から浄厳院・城へ続く活発な往来を可能にした。それは単に城下町とその周縁部のインフラ整備というだけでなく、「竜」の名を持つ山を取り込んだ南北の道によってはるか南の熊野との連携を強めるという目的があったと考えてよい。