そしていよいよ風水で最もよく知られる「表鬼門(鬼門)」にかかろう。安土城の表鬼門にあたる北東には雨宮龍神社が坐(ましま)すことは既に触れた。

 だが、北が竹生島弁才天から織田劔神社、西が大嶋神社、奥津嶋神社、日牟禮八幡宮、南が竜石山から熊野三山、そして裏鬼門の南西が摠見寺―浄厳院―西光寺―石清水八幡宮と万全の構えであるのにくらべて肝心の表鬼門が弱い印象を受けるのは否めない。これはなぜなのだろうか。

 その疑問を解決する鍵は、8年前の出来事にある。元亀2(1571)年の比叡山延暦寺焼き討ちだ。これについても以前詳しく述べたが、延暦寺は京の表鬼門を守る国家鎮護の場だった。それを信長が焼き討ちし、豊臣秀吉による再建事業が始まるまで逼塞を余儀なくされている。このあたりは日蓮宗の受難と同様で、信長は反抗的態度をとる仏教宗派を決して許さないという態度を貫いているようだ。

 しかし、京の御所(皇居)の表鬼門を破壊するにあたって「何か朝廷に災いが起こりはしないか」と吉田兼見に確認した信長が、自分の本拠の表鬼門を万全の備えで固めたとあっては立場がない。

 そこで、信長はこの方角をはるか遠方のパワースポットで固めることとしたらしい。それは、信濃北部の善光寺だ。善光寺は日本最古といわれる一光三尊阿弥陀如来を本尊とする古刹であり、安土から陸路を進むと大蛇(龍)をご神体とし軍神としても崇められる諏訪明神の諏訪神社(現在の諏訪大社)を経るという抜群のポジションにある。

 その門前町は諸国から集まる参詣者たちによって大いに栄え、武田信玄や上杉謙信がその繁栄を自分のものにしようとむりやり甲斐善光寺、越後善光寺を勧請(かんじょう)したほどだ。

 信長が善光寺を重視していた傍証もある。のち天正10(1582)年、武田征伐後のことだ。

 「甲斐・信濃に信長さまが討ち入りされたとき、信忠殿(信長嫡男)は甲斐善光寺を美濃へ移された」(『家忠日記』)「信長さまが甲斐善光寺の本尊を尾張清洲の甚目寺に移した」(『甲斐善光寺建立記』)

 信長としては武田勝頼を滅ぼして信濃善光寺が直接支配下に入っただけでは物足らず、甲斐善光寺の本尊を岐阜に移して信濃善光寺に至る表鬼門の中継点とするつもりだったのだろう。
大徳寺総見院に所蔵されている「木造織田信長坐像」=京都市北区(iRONNA編集部撮影)
大徳寺総見院に所蔵されている「木造織田信長坐像」=京都市北区(iRONNA編集部撮影)
 以上のような表鬼門構築の計算を胸に秘めて、信長は龍の結界を張った安土城とその城下町(安土山下)を出現させた。

 翌天正8(1580)年8年1月17日、播磨三木城の別所長治が自害すると、完全に孤立した大坂本願寺は閏3月に開城を決定。4月9日は門跡の顕如が大坂を退去した。

 5月26日には石清水八幡宮が正遷宮を行い、スポンサーである信長も参列している。このとき『信長公記』が言祝(ことほ)いだ「信長御武運長久、御家門繁栄」はまさに安土城を中心とした龍のパワーによってもたらされたのだった。

 8月2日、大坂本願寺に居残っていた教如(顕如の子)と抗戦派も城を退去。これで近畿には信長に敵対する勢力が完全に姿を消したことになる。