“変化球”だらけ


 ところで、冒頭で紹介した5月16日付け「東洋経済オンライン」報道が行われた背景には、「日米歴史家、韓国メディアの“変化球”に困惑」と題した5月7日付け「東洋経済オンライン」報道(福田恵介記者)に対する強い反発があったからであると推察される。論争点は一体何か。7日付け記事では、韓国メディア(聯合ニュース)が187人の声明は「安倍批判ではないのに『安倍批判』と断定」して「歪曲報道」したと批判した。

 ちなみに聯合ニュースは、「声明発表を主導した米コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授が聯合ニュースとのインタビューに答えた」として、「安倍政権がかつての河野談話の時のように過去の過ちに対する責任を認め、歴史歪曲や政争に用いることをやめるよう訴えかけるもの」と声明の趣旨を説明したと報じている。

 この報道に対して福田記者は、「ダデン教授は署名者の一人であるが、内容を主導してはいない」という早稲田大学政治経済学術院の浅野豊美教授のコメントを引用しつつ、「聯合ニュースが報道したダデン教授のコメントはあくまでも個人的見解であって、『このようなコメントは今回の声明に盛られた研究者の相違とは全く違う』(浅野教授)」と厳しく批判し、さらに、次のように指弾している。

 「聯合ニュースの報道の中身は、日本たたきで終始する、いつもの韓国メディアの論調から外れていない。英文も日本文もどちらも十分に理解できない(と思われる)特派員が、都合の良い論調で、しかも原文の意味を歪曲して伝えているとしか言えないような内容だ。……この声明の中では、『この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりに歪められてきました』と明記されている。この部分を、聯合ニュースは都合よく外して報道しているのは間違いない。同報道では『大勢の女性たちが自らの意思に反して捉えられ、むごい野蛮行為のいけにえにされた証拠は明らかだ』としている。だが、声明では『大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力に晒されたことは、既に史料と証言が明らかにしている通りです』とのみ記されており、どこにも『むごい野蛮行為』『いけにえ』といった言葉はない。」

 これに対して、187人の声明の署名者の一人である小山エミ(インターセックス・イニシャティブ代表)は、「声明の呼びかけ人がサンド氏とダデン氏の二人であることは公開されている」として、「声明に署名すらしていない浅野氏一人を根拠として、韓国メディアの報道に『日米歴史家』が『困惑』しているというのは、明らかな捏造だ」と批判し、次のように指摘している。

 「(今回の声明は)文脈やタイミングから、明らかに安倍首相と日本政府の姿勢を批判するものだ。わたしは、3月にシカゴで開かれたアジア研究学会において、この声明のもととなる議論が行われた会合に参加した。その中心メンバーは、2月の声明(20人の共同声明)にも参加した歴史学者たちだ。彼らは、日本政府によるメディアへの(特定の識者を起用するように、などの)干渉が続いているなど、歴史修正主義を事実上政府が後押ししていることを踏まえ、歴史学以外の日本研究者にも呼びかけ、より大きな声明を発表することを決めた。声明を発表する一番の目的は、歴史修正主義的な政府と世論の圧力にさらされ、自由な研究や報道を脅かされている日本の歴史学者やジャーナリストらを支援することだ。」

 今回の187人の声明の中心メンバーは2月に共同声明を出した歴史学者だというが、20人の内、8人は今回の声明には署名していない。この中には、全米歴史学会の次期会長も含まれている。この事実は一体何を意味しているのか。8人が署名しなかった理由は一体何か、20人と197人の声明の違いは何か、を明らかにする必要があろう。

傘連判のようだ


 そもそもこの声明には宛名も代表者や連絡先の住所も書かれておらず、公文書の形式にもなっていない。筆者が確認したところ、首相の下に正式に届けられていないという。藤岡信勝氏は「唐傘に円形に署名して首謀者を分からないようにした傘連判のようだ」と揶揄しておられるが、有力な常識派のジャパノロジストが多く含まれている声明にしては、杜撰さが目立つ。

 筆者は5月20日から韓国で開催されたアジア版ダボス会議「チェジュ・フォーラム」に出席し、ドイツ、カナダ、オーストラリア、インドネシア、中国代表(元首相クラス)らの「世界リーダーセッション」で司会をした韓国紙の中央日報の代表者が、安倍総理の「美しい日本」のビジョンについて関心を持ち、パネリストの福田元首相に質問したことが強く印象に残ったが、5月12日付け朝鮮日報の「世界的な歴史学者187人が韓国に呈した苦言」と題するコラム(キム・テイク論説委員)も注目される。

 このコラムは、「声明に盛り込まれた二つの文が引っかかる」として、「慰安婦問題は日本だけでなく韓国や中国の民族主義的攻撃によりあまりにも歪曲され、政治家やジャーナリストだけでなく研究者たちさえも歴史的探求の基本的な目的を失っている状態だ」「元慰安婦たちの苦痛を避け、国が民族主義的目的のために悪用することは国際的な問題解決を困難にし、被害女性の尊厳をさらに冒すること」という指摘は、「自己中心主義への警告」であり、「韓国人に対する彼らの苦言も『第三者のものだから価値がある』と受け止めなければ、成熟した姿勢だとは言えない」と主張している。

 歪曲報道が目立つ韓国紙にもこのような冷静な指摘があることは注目に値するが、187人の声明に対する我が国の反応はどうか。民間人有志数人が連名で188人の内133人にメールで発信した「『日本の歴史家を支援するための公開書簡』に関する幾つかの考察」は、声明が「『慰安婦』制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきもの」と指摘したことについて、「兵士の性衝動にどう対処するかという普遍的問題として議論しなくてはならない。何故アメリカ、ソ連、韓国などのケースに触れないのか」と抗議し、次の四点が欠落しており、「冷静で理性的な意見の表明」とは言えないと厳しく批判している。

(1)彼らの意見の根拠になる証拠を検証しない。
(2)異なる場所で起こった同様の事象との比較考証を行わず、問題を具体的に、普遍的に論じる正当性を失っている。
(3)反証をチェックしない。
(4)その時点で有効であった法律をチェックしない。

事実無根の宣伝が流布


 さらに、日本の大学教授有志で共同声明を出す準備をしているが、主な論点を例示として列挙し、本稿をしめくくりたい。

(1)「日本の歴史家を支持する声明」という声明のタイトルの「日本の歴史家」とは誰を指すのか。
(2)「慰安婦強制連行は事実であり、慰安婦は性奴隷であった」と主張する20人の声明(前述した歴史学研究会の声明も同趣旨)と197人の声明はどのような関係にあるのか。20人の内、8人が署名しなかった理由は一体何か。
(3)日本に対して「歴史解釈」の一致を求めているのか。
(4)米マグロウヒル社の歴史教科書記述や2007年の米下院決議、慰安婦碑文の事実誤認についても検証する必要があるのではないか。
(5)「日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにも歪められてきた」というが、米下院決議も「民族主義的な目的のための利用」に該当するのではないか。
(6)満洲やドイツなどで敗戦国民の婦女子をレイプしたソ連軍、米兵向けの慰安施設をGHQの命令で作らせた米軍や、朝鮮戦争中に朴大統領の命令で作られた国連軍(米軍)向け基地村、ベトナム戦争中に韓国軍が自軍兵士用に運営したトルコ風呂などと比べて、日本の慰安婦制度が「特筆すべきもの」と断定する根拠は何か。
(7)声明の言う「正しい歴史」とは何か。
(8)「歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が『強制的』に『慰安婦』になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます」とあるが、異論とは誰の学説なのか。
(9)事実無根のプロパガンダが国際社会に広がっていることは解決すべき課題であり、協力を期待したい。

 なお、3月の「訂正勧告」に賛同した日本の大学教授の中には、187人の声明には傾聴に値する指摘が多く含まれており、「偏見なき清算を、共に残そう」という呼びかけに共鳴し、真摯に応える声明を出すべきであり、「私たちも過去の全ての痕跡を慎重に天秤にかけて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています」という指摘には全く同感であり、「この最も重要で最も基本的なところで、日米の歴史研究者たちが完全な意見の一致を見たというのは素晴らしいことであり、この上なく喜ばしいことである」と宣言し、この核心部分以外の問題点には言及しないという基本姿勢を貫くべきであるという大所高所に立った有力な意見もあることを付記しておきたい。

 大沼保昭・明治大特任教授は「お互いが共通の認識を持っているというポジティブな側面こそ大切に考えるべきだ」と指摘しているが、筆者も同感である。

たかはし・しろう 1950年、兵庫県生まれ。早稲田大学大学院修了後、米国スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、政府臨時教育審議会専門委員、埼玉県教育委員長を経て、現在、明星大学教授。政府男女共同参画会議議員、一般財団法人親学推進協会会長。主な著書に『歴史の喪失』(総合法令出版)、『教科書検定』(中公新書)、『歴史教育はこれでよいのか』(東洋経済新報社)などがある。