ノーマン理論復権


 米国でのダワー教授のノーマン再評価を受けて日本でもノーマン理論が復権する。没後20年を期して77年に全集が刊行され、87年には全集の増補が刊行される。さらに左派リベラル勢力が「一般国民もアジア侵略の加害者である」と戦争責任を問い始めた。

 その理論を支えた一人となった一橋大学の油井大三郎名誉教授は1989年にノーマンを再評価する『未完の占領改革─米国知識人と捨てられた日本民主化構想』を上梓し、「武装解除されても、天皇制が残るならば、日本は他の世界にとって未解決な危険な問題であり続ける」とのノーマンの発言を引用して、アジアから信頼を得るには、日本人自身が天皇制解体や加害責任追及を完遂するべきだと唱えた。言い換えれば東京裁判をやり直し、日本の加害責任を徹底追及しなければ、「占領改革」が完了しない、と訴えかけた。

 こうしてノーマンが説いた「アジアへの加害者責任」の自虐史観は日本に浸透し、日本で謝罪外交の必要性が理論化された。日本国内で運動の中心的役割を果たすのが家永教科書検定訴訟支援運動だった。この結果、1980年代後半ごろから日本を始め世界各地に日本に謝罪と補償をさせる「反日」組織が誕生する。

 東南アジアなどの戦争の被害地を訪問して加害者としての日本の歴史を確認する「ピース・ボート」運動が83年に辻元清美衆院議員が発起人となって始まる。84年には家永教科書訴訟を支援する形で「南京事件調査研究会」が発足され、84、87年に中国を訪問し、中国側の主張に沿って『侵華日軍南京大屠殺資料専輯』を翻訳して出版するなど「南京大虐殺」キャンペーンを始めている。また八六年には、中国、韓国などの反日活動家を訪日させ、日本の加害責任を追及する国際ネットワーク構築が始まった。

 韓国で親北系のハンギョレ新聞で「『挺身隊』怨念の足跡取材記」の慰安婦キャンペーンが始まるのは90年1月だった。翌2月17日、戸塚悦朗弁護士が国連人権委員会で「従軍慰安婦・強制連行」を取り上げている。

 在米中国人が日本の戦争責任を蒸し返して米国や国連を舞台に日本に謝罪と補償を求めて反日宣伝を行う「対日索賠中華同胞会」が出来るのは87年だ。狙いを「南京大虐殺」に絞った「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」を結成、翌92年にはカリフォルニアで「抗日戦争史実維護会」が組織される。

 米国での中国系反日運動に連動して88年に香港で「香港紀念抗日受難同胞聯會」が結成されたのを皮切りにカナダなど世界各地で同趣旨の組織が結成され、94年12月、30を超える中国系反日組織を結集させる連合体として「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)が結成される。中国政府と連携した中国系米人たちが「日本に戦争での残虐行為を謝罪させ、賠償させる」ことを主目的に設立した「抗日連合会」が、「歴史戦」の主役として北米で日本の戦争責任を追及する苛烈な反日プロパガンダを20年にわたって繰り返している。南京事件のほかに捕虜虐待、七三一部隊、慰安婦を挙げてきた。戦犯裁判や対日講和条約での日本の責任受け入れを一切、認めない点で明白な反日組織だ。昨年、カリフォルニア州グレンデール市やニュージャージー州で慰安婦像を設置したのは記憶に新しい。「南京大虐殺」を目撃したとするドイツ人のジョン・ラーベの日記を発掘し、ドイツを「南京大虐殺」キャンペーンに捲き込んだり、反日集会に参加したアイリス・チャンに『ザ・レイプ・オブ・南京』を執筆させたりしたのも「抗日連合会」だった。

 21世紀になると、ノーマンの再評価が広がる。ライシャワーの駐日大使時代の特別補佐官で、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院の学院長を務めたジョージ・パッカード氏も2001年に東京・六本木の国際文化会館で、「ライシャワーの日本近代史観は楽観主義が強すぎて軽視される一方、ダワーの『敗北を抱きしめて』やハーバート・ビックスの『昭和天皇』などの著作にみられるように、ライシャワーと対照的なノーマンの史観に評価が高まっている」とライシャワーを批判し、ノーマンを持ち上げた。

 こうしたノーマン再評価を背景に中国、韓国はじめ、米国やカナダ、香港でも「日本の加害者責任」と人権を結びつけ、日本を弱体化させる反日国際ネットワークが次々と構築され、反日プロパガンダは現在も世界で広がっている。中国が仕掛ける「歴史戦」の活断層はこのあたりにあるともいえる。

中国人スパイが指南役


 では、英国立公文書館所蔵の秘密文書で、MI5がケンブリッジ大学留学時代に共産主義者であったことを断定したノーマンがいつ、どのような経緯で、ソ連諜報部のスパイ・工作員(GHQ参謀第二部G2のチャールズ・ウィロビー部長)となったのだろうか。

 MI5の秘密文書によると、神戸のカナディアン・スクールを経てカナダのトロント大学に入学してマルクス主義に傾倒したノーマンは1933年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学すると、極秘にイギリス共産党に入党してインド人留学生をコミンテルン秘密工作組織へリクルートする非公然活動を行っている。欧州からアジアでの共産革命に路線変更したコミンテルンはインドで共産主義によって独立運動を進めることは最重要課題であった。当然ながらインドを植民地とする宗主国の英国にとって、独立を通じてインドを共産化するコミンテルンの非公然活動は最も危険な脅威だった。日本生まれで日本語に堪能なアジア通の白人留学生だったノーマンは、この工作に最適任で、ソ連諜報機関から高い評価を受けたとみられる。

 奨学金の期限が切れたため1935年にケンブリッジ大からカナダに帰国したノーマンは翌年にハーバード大学大学院に入学して博士号をめざすまでの約一年間、カナダ国内で共産党活動に関わっている。「カナダ中国人民友の会」の書記となり、中国革命運動との繋がりができるのだ。これは日本の侵略に抵抗して中国の左翼革命を支援する団体でカナダ共産党の下部組織に位置づけられていた。ここで初めてノーマンは「反日」思想に目覚め、突然ハーバード大やコロンビア大で「日本研究」を志す。そこに導いたのが中国共産党の大物工作員で米国共産党の秘密党員だった冀朝鼎だった。

 その後、冀朝鼎は、ノーマンがハーバード大学大学院留学やカナダ外務省入省、戦後の東京での占領政策など人生の節目で必ず顔を出して、ノーマンのキャリア形成や工作活動に影響を与えた形跡が窺え、指南役「コントローラー」だった可能性が高い。

 第二次世界大戦前後に米国内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、米陸軍情報部が傍受し解読した記録「ヴェノナ文書」を1995年、米国家安全保障局(NSA)が公開し、第二次世界大戦前後に、米政府内に約300人のソ連のスパイが潜入し、ルーズべルト政権はソ連や中国共産党と通じていたことが確定しているが、冀朝鼎もその一人だった。

 冀朝鼎は中国共産党の要職を担いながら、そのことを秘して1941年から重慶の国民政府の財務部長(大臣)アドバイザー(秘書官)を務める大物工作員だった。中国の山西省に1903年に生まれ、北京の清華学校に学んだ後、シカゴ大とコロンビア大で学位を取る。1920年代にはソ連にわたり国際共産主義運動の総本山であるコミンテルン本部に務め、28年のコミンテルン第六回大会では、中国共産党代表団の一員として参加。30年代は米国に渡り、米国共産党の秘密党員として北米各地で情報工作を仕掛ける一方、ノーマンらと共にマルクス主義の研究組織、太平洋問題調査会(IPR)米国支部に研究員として参加し、偽名で執筆活動も行っている。ルーズベルト政権中枢にも人脈を広げ、蔣介石国民政府の財政部長のアドバイザーに就任したのも、やはりヴェノナ文書でソ連のスパイと判明した米財務省の財務次官補だったハリー・デスクスター・ホワイトの推薦だった。冀朝鼎を通じてノーマンがソ連のスパイにして日米開戦に関係する「ハル・ノート」を起草したホワイトと繋がりがあったことは歴史の偶然ではないだろう。ちなみに冀朝鼎は大戦中に財政部長アドバイザーのポストを利用して国民党が支配する地域の経済を意図的に悪化させて戦後の国共内戦で中共側の勝利に貢献したと言われている。共産革命が成功するや冀朝鼎は北京に戻り、対外投資を統括する中共政府の要職に就任。1927年のニクソン米大統領訪中の際に通訳を務めた弟の冀朝鋳は、駐英大使を経て国連事務次長まで上り詰めた。冀兄弟は中国共産党の「ノーメンクラツーラ」であった。

 ノーマンは、冀朝鼎の紹介から蔣介石政権の「特別顧問」を務め、「天皇制廃止」を唱えた米国有数の中国研究家、オーエン・ラティモアや1945年の「アメラジア事件」でソ連スパイとしてFBIに逮捕され、ヴェノナ文書でもソ連のスパイとされたフィリップ・ジャッフェと関係を深め、「反日」日本研究を始める。ケンブリッジ大で欧州中世史を学んだノーマンが冀朝鼎との出会いから、それまで興味が無かった「日本」研究に関心を持つのは、対日情報活動を意識してのものではなかったか。日本に生まれ育ち、家族が日本に住んでいれば、日本に興味を持ち、日本に出入国するのは不自然ではない。そこに冀朝鼎らコミンテルン、中国共産党が目を付けて「日本専門家」の肩書をもつ「スパイ・工作員」に仕立てあげ、外務省に就職させたのだろう。ノーマン理論による「ジャパン・ディスカウント」運動が世界で展開される現在、最初にノーマンを操ったのが冀朝鼎だった事実は、中国が仕掛ける「歴史戦」の奥深さを浮き彫りにして、背筋が凍る気がする。