同性愛関係


 カナダ外務省の外交官だったノーマンがいかなる理由でソ連諜報部のスパイ・工作員とみなされたのだろうか。ケンブリッジ時代に共産主義者であったことは英国立公文書館が公開したMI5の機密文書で判明したが、ケンブリッジ卒業後も共産主義から離れずソ連のスパイとして働いていたとMI5が疑念を抱いたのはノーマンと同時代にケンブリッジ大トリニティ・カレッジで学び、重要なエリート・スパイとなってGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)とKGB(ソ連国家保安委員会)から「マグニフィセント・ファイブ(素晴らしき五人組)」と呼ばれた「ケンブリッジ・スパイ・リング」との接点だった。

 五人組とは英外務省やMI6(英秘密情報局)に侵入したキム・フィルビー、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン、MI5に侵入したアンソニー・ブラント、外務省から大蔵省に転じたジョン・ケアンクロスだが、ソ連諜報機関からリクルートされた彼らは、いずれも最高度の二重スパイとしてソ連のために働いた。バージェスとマクリーンは1951年5月にスターリンの「モグラ」であることが発覚、ソ連に逃亡するが、ガイ・リッデルMI5副長官は同年10月1日の日記に、「ノーマンが1934年から36年に『ケンブリッジ・グループ』の一員で、初期の左翼主義が今まさに深刻」と記して、ケンブリッジで共産党活動歴があったノーマンが失踪した2人らと関係があったことを指摘している。

 コロンビア大学で博士号を取得したカナダ在住のトロント大学のジェームズ・バロス教授がカナダや米国などの情報機関の機密文書を渉猟歩して著した『全くの悪気もなく─ハーバート・ノーマンのスパイ事件』(James Barros, No Sense of Evil:The Espionage Case of E. Harbert Norman, Ivy Books)によると、ノーマンはケンブリッジに着いて6週間後の1933年11月にキャンパス内でバージェスが組織した「反戦デモ」に参加して以来、バージェスと親しくなり、卒業後も連絡を取り続けた。ノーマンを高く評価したバージェスは終始仲間に引き込もうとしていた。イギリス王室の美術顧問として「英美術界の重鎮」となったブラントは、スパイ疑惑発覚後、バージェスやフィルビーらのようにソ連に逃亡せず、英国に留まり、古巣のMI5などに秘密情報を暴露したが、バロス教授は、MI5高官からの情報として、ブラントが1964年にMI5に対して、「ノーマンは我々(五人組)の仲間だった」と告白したと記している。またノーマンと面識や交流がなかったブラントがノーマンの秘密(ソ連スパイ)を知り得た理由として、「ブラントはノーマンを良く知るバージェスと同性愛関係にあったため、バージェスから寝物語として聞いたのだろう」と書いている。

亡命KGB高官の証言


 もう一つ根拠がある。ソ連から亡命したKGB高官の内部告白である。バロス教授によると、1961年12月、フィンランドの首都ヘルシンキにあるCIA(米中央情報局)支部に妻子を連れてモスクワから駆け込んだKGB幹部、アナトリー・ゴリツィンが「ノーマンは(ケンブリッジ卒業後、カナダ外務省入省後も)長期間、共産主義者でKGBのエージェントだった」と証言していた。ゴリツィンはKGB第一総局に属して米国、カナダ、英国における諜報活動を統括し、NATO(北大西洋条約機構)内のソ連スパイから報告を受ける要職に就いていて、ノーマンに関する秘密情報も知り得る立場にあったという。

 このほかにもバロス教授は、ノーマンがGHQの対敵諜報部を経て駐日カナダ代表部主席として戦後日本に滞在した占領期に、朝鮮戦争が勃発する1950年まで、本省に報告することなく夜間に開催されていたマルクス主義を研究する勉強会に参加し続けていたことは看過できないと書いている。

 また濱田康史著『カナダの対日インテリジェンス、一九四二年-一九四五年』(「ジェンダーの国際政治」日本国際政治学会編)によると、日米開戦となり、42年9月にカナダに帰国したノーマンはオタワにあったカナダ外務省の対外情報機関である調査部特別情報課で対日インテリジェンスの責任者となり、英米が傍受した日本の外交電報などを元に日本情報の収集や分析、情勢判断を行った。この中でノーマンは44年2月以降、同年6月にノルマンジー上陸作戦が始まる前、佐藤尚武駐ソ連大使の電報に着目し、「北樺太の権益をソ連に移譲し、日ソ関係を良好にすることで、(中略)英米とソ連を離間させることを東京に求めた」として「日ソ開戦ではなく日ソ接近こそが今後の日本の方針であり、したがって英米はソ連との結束を維持すべきで、これを補完することがカナダの役割である、と提言した」という。つまりノーマンは日本の対ソ接近を見抜いて米英の連合国がソ連と結束を継続してノルマンジー作戦を遂行するように働きかけていたのである。

ソ連との結束維持


 欧州でドイツと死闘を繰り広げていたスターリン首相は米英が第二戦線(西部戦線)を開き、反撃することを熱望していた。実際に43年11月、テヘラン会談の冒頭で、スターリンはルーズベルト米大統領とチャーチル英首相に「北フランスで第二戦線を形成すれば、対日参戦する」と約束している。一方で日本は重光葵外相らが44年前半から中立条約を結んでいたソ連を頼って独ソ和平を斡旋する形でソ連と交渉するため特使派遣を打診したがソ連から拒絶されている。こうした日本のソ連傾斜を把握して、大戦中にノーマンが「英米はソ連との結束を維持し、カナダが補完するべし」と、クレムリンの「国益」に合致する提言をしていたことは注目してもいいだろう。連合軍のノルマンジー作戦が成功してベルリン攻略は加速された。ノーマンがソ連のためにインテリジェンスを行ったとも解釈できそうだ。

 こうしたノーマンのソ連や共産主義との「関係」についてカナダ政府は、90年に公文書(ライアン報告書)を出して「ひとかけらの証拠もない」とノーマンの忠誠を訴えている。しかし中西輝政京都大学名誉教授によると、これは専門外の学者に書かせたもので、客観性を欠き、彼と彼を引きたてたレスター・ピアソンに関する史料を公開していない。首相や国連総会議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したピアソンは「カナダの偉人」であり、ノーマンがソ連のスパイであったことが確定すれば、「偉人」にも嫌疑が広がり、輝かしい業績に傷がつく。こうしたことからカナダ政府が情報公開を回避しているのであれば、世界で反日包囲網が広がり、ダワー教授らが「日本悪玉論」を発信する原点となった「日本の敵」ノーマンを取り巻く戦後日本の「本質」は永遠に明らかにならないだろう。

おかべ・のぶる 1959年生まれ。産経新聞編集委員。81年、立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。社会部で警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て97年から2000年までモスクワ支局長。『消えたヤルタ密約緊急電──情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書)で第22回山本七平賞を受賞。ほかに『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)などの著書がある。